獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

黄葉錦の季節

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 世に言う秋の風物詩は「紅葉」である。しかし、自宅の目の前の天然の森は紅くはならない。全体に黄色が主体で茶色系に色づく。しっかりと緑のまま踏ん張る木々もあって、ごく一部の紅色がアクセントになって、文字通り天然の「錦の絨毯」になる。ゆえに我が家の「紅葉」は漢字で書くと「黄葉」になる。

 随所にある銀杏並木もそうで、決して「紅葉」ではなく「黄葉」である。東京都のマークで、東京大学のマークでもあるので、東京は一際銀杏が多い。輝く黄色は色鮮やかで、表現次第では「黄金色」とも言う。晴れた青空と黄色の銀杏の対比は荘厳ですらある。けれども矢張り「紅葉」と言うのが主体で、「黄葉」と書く人は稀だ。

 我が家の周りは古いUR団地なので、人の手で植えられて手入れが行き届いた並木が多いが、目の前の小高い斜面の森は100%天然で密林だ。地面は陽が入らず目にするのも難しいが、枝葉の僅かな隙間から差す木漏れ陽が無数の筋を成して美しい。その「木漏れ陽」が間もなく終わる。木々が葉を落とすと見られなくなるので"期間限定"である。

 雑木林は日々色合いを変えて目を楽しませてくれる。雑多な木々がそれぞれに終幕を飾ろうと生命力を燃やすので、一日と言えず葉の色が進化する。間もなく枝との別れが始まるので、その切なさに身を震わすように風を受けて身悶える。様々な色が混じり合うように折り重なって揺れる様は、舞い落ちる枯葉と共に圧巻だ。

 朝日を浴びての輝きも見事だし、午後の傾いた日差しを受けて風に揺れる風情も捨て難い。早々と西空に退散する太陽が山の端に隠れ出すと、黄色い葉が茶色に、茶色系の葉がくすんだ赤に色合いを変える。夕闇が濃さを増すに連れて小高い森はシルエットになって、すぐに視界から消える。"錦色のシンフォニー"は終演だ。

 夜のとばりは色彩を奪うが、複雑に入り組んだ独特の「錦」は瞼の奥に残る。明日はどんな表情を見せてくれるのだろうかという期待と共に、漆黒の闇で眠りに着くのである。世間が認めようと、認めまいと、我が家の「黄葉」は未だ暫く続きそうである。重症高齢者は来年もまた、""錦色のシンフォニー"が見聴き出来るだろうか。未練心が消え残る。

新型コロナウイルスの長い一日

 タイトルを「新型コロナウイルスの長い一日」としたが、言うまでもなく一日は24時間と決まっている。実際に長い一日や短い一日が存在するわけではない。けれども人間生活は奇妙なもので、途轍もなく長いと感じる一日もあれば、何故か極端に短いと感じる一日もある。どちらも同じ一日なのに、人それぞれで状況により感じるものが異なる。

 学生やサラリーマンの人など、予め決められた日程で活動する人たちにとっては、平日と休日の時間感覚が違うかも知れない。楽しいことがある時の時間と、苦しいことや悲しいことがある時とでは、大抵の人に共通して時間の経過が違うだろう。同じ時間、同じ一日なのに、時と場合によって人間の感性は微妙に揺れ動く。

 昨日21日からは3連休である。新型コロナウイルスの感染拡大が急ピッチで上昇し、多くの国民が「第三波」の到来だと気づいても、業界に配慮し続ける政府は口先で注意を呼びかけるだけで、何らの具体的防止策を打ち出せない。そればかりか逆に感染拡大を煽る効果が顕著な、自ら決めた「Go-Toキャンペーン」や「Go-Toイースト」の中止は都道府県知事に委ねて責任を逃れている。

 誰が見ても考えても矛盾する相反する施策と制度が、「経済を回しながらコロナウイルスを抑制する」との大義名分で、対応する医療の実態を無視して継続されている。あれこれ口実を並べることが政府の仕事になり、「専門家会議」なる便利な臨時機関へ丸投げして"下駄を預けている"。非常事態再来が現実化している現在、政府の最大関心事はどう言い逃れるかだ。

 新型コロナウイルスの感染は誰しも歓迎しない。個体差と症状により死に至る病気なのに、何故か不思議に我が国の為政者に感染していない。内閣総理大臣を始め各大臣など誰一人発病者が居ない。イギリスとアメリカの指導者は感染を発表したが、我が国と隣国中国などの指導者は幸か不幸か(?)無事である。

 世界に覇権を見せつけて憚らないお隣の中国は、不自然に新型コロナウイルスを発生させて、いち早く世界に先駆けて制御したと発表した。医療先進国なら納得できなくはないが、経済力と軍事力だけ突出した"超大国"の独裁体制の中身は一向に見えない。その発表を鵜呑みにしているのは、どこかの国の"軽佻浮薄"なマスコミだけだろう。

 権力を手にすれば一日を長くも短くも出来るらしい。もう一つの"超大国"アメリカの現職トランプ大統領は、選挙で負けてもその負けを認めない。それが民主主義だとの「屁理屈」が堂々と罷り通っている。この人の一日は多分1,000時間を超える長大さで、尚且つ自分の都合で自由に変えられるらしい。誠に羨ましい限りである。

 野望を秘めた新型コロナウイルスが突如姿を現して、覇権を目論む"超大国"の海域から「目の前のたんこぶ」が消えた。偶然にしては出来過ぎの作為と成果だ。赤い旗とカーテンの裏に何が隠されているのか誰も知り得ない。独裁国家が何をやり始めるか予測は不能だ。"嘘と偽善"が同居する世界の政治は、最早コントロールが難しいらしい。

 我が国の新型コロナウイルスの感染拡大が何を指し示しているのか興味深い。右往左往しながら結局は何も出来ず、何もやらない我が国政府の実状は、皮肉にも世界の政治情勢をそのまま反映しているようだ。口先と小手先であれこれ講じても、結局は何も変わらず、何も変えられないというのが、どうやら我が国と世界の結論らしい。

 それならば新型コロナウイルスの感染拡大がどうなろうと、それは"曖昧"を得意とする政治に任せて精々「Go-Toキャンペーン」と「Go-Toイースト」で楽しもうとなる。無理や乱暴な施策だと異を唱えても、結局のところ誰も楽しくならない。世は「赤信号みんなで渡れば怖くない」時代真っ盛りである。大いに遊び、大いに飲み食いして、挙げ句の果てに新型コロナウイルスに感染して下さいということのようだ。

 アメリカの現職大統領を見習って大いに長い長い一日を手にしよう。一日が24時間などと誰が決めたのだ。"法や決まりは破るためにある"との世評もあるので、カネのパワーで成せないものはない。"見かけ倒しの真実"が巣くう時代には、「悪徳の栄え」が必要かも知れない。その対比の彼方にようやく「真実」が姿を見せるのであろう。

大河ドラマの時代認識

 現在放送中のNHK大河ドラマ麒麟が来る」が佳境だ。人気度や視聴率には興味がないが、何とはなしに見ていて小首を傾げざるを得ない場面に時折出喰わす。描かれている時代が戦国時代だとしても、身分制度が厳格な中世に名もなき一般庶民が時の将軍や天皇と事もなげに会ったり、話せるだろうか。封建制度渦中の生活が不自然に民主的である。

 今年の大河ドラマに限らないが、登場人物の衣装が真新しく汚れが見られないのも不自然だ。フィクションとは言え余りの時代錯誤は、まるで韓国制作の時代ドラマを見るようで白々しい。韓国ドラマの時代認識や衣装は事大主義のオンパレードで、歴史認識の有無に関わらず甚だしい時代錯誤の産物だ。

 他国ドラマは失笑して看過できるが、先進国と言われる我が国のそれも公共放送が同じ轍を踏んでいるのは如何なものかと思う。他番組で矢鱈とお笑い芸人を重用し"人気取り"に夢中なNHKらしいと言えば言えなくはないが、大枚の制作費を投じる看板番組だけにもう少し配慮が成されて然るべきと考える。

 情景描写にも配慮不足が目立ち、電気がない時代なのに夜間シーンが皓々と明るい。LED時代となった現代と大差ないくらい明るい。着古してよれよれの着衣や、歩き古して磨り減った草鞋や草履も見られない。多くの人の手が触れた建物の柱は、磨り減って丸くなるのが時代の真実だ。絵の具や塗料で誤魔化さず、個別の建造物や道具に語らせる1ショットがあっていい。

 フジテレビが制作した伝説のドラマ「北の国から」で、頻繁に登場した雪の大地を駆け廻るリスやキタキツネのキラキラした目には、名優も及ばない迫真の緊張感と大らかな印象が瞼に残った。自然とは何かを、リアルとは何かを示して余りあった。永い年月を経ても尚も人の心に残り続ける、「感動」の意味を考えねばならない。安直さの中に「感動」を見出すのは至難であることを知るべきだ。

 その時代の空気感が感じられれば忘れ難い一場面になる。ドラマの展開は役者の表情や仕草、台詞だけではないのである。貧しい時代の我が国の映画は、監督がそれぞれに吟味したスタッフを揃えて撮影所内に「○○組」と呼ばれたチームを編成していた。それぞれの分野のプロが乏しい予算をやり繰りして足で資料を集め、昼夜を問わず数多くのロケ現場へ足を運んで必死に監督の信頼に応えた。

 資材が乏しく誤魔化せないので見合った本物を苦労して探して、一瞬で画面から消える1シーンに精魂を込めたのだ。神経を研ぎ澄まして困難に挑み、観客の胸に長く残る感動シーンを生み出した。豊かで希望する資材が手軽に手に入る時代になって、フイルムが電子映像に簡略化されて、尚更"軽量ドラマ"が増えたのが気になる。

 簡単にトリックが実現できるゆえに、全ての作業が簡略化されて「名人芸や職人芸」が消え、"誤魔化して済ます"が当たり前になった。若いお笑い芸人の粗末な芸同様に、「目を背けたくなる」大河ドラマなど願い下げだ。この程度の大河ドラマを見るため視聴料を払っているのではない。NHKはもう少し勉強して、顔を洗って出直す必要がありはしないか。

コロナウイルス感染拡大第3波

 連日報道される新型コロナウイルス感染拡大が、愈々第3波の様相を帯びてきた。政府は保守政権の面目躍如で業界寄りの姿勢を変えないが、戦時中の"大本営発表"の如く政府が面舵を切った暁には大抵手遅れになっている。政治を信用するも信用しないも個人の自由であり「自己責任」だから、実際にどう対処するかは各自が決めねばならない。

 欧米各国で急拡大の様相なので、早晩我が国もと思っていた矢先のことで驚きはない。屁理屈とはよく言ったもので、どんな物事にも付けようと思えばそれなりの理屈をつけられる。子供の喧嘩で負けた時の言い逃れ同様信憑性は極めて低い。政治がやることと言えば概ねその程度の口実を並べるだけと、大抵相場は決まっている。

 その程度の屁理屈と口実を揃えるだけの国会議員を、大仰な民主主義の選挙で私たちは選んできた。自分たちが選んだ議員諸公が仕事が出来るか否かを問おうとする動向も、その気配さえ見当たらない。与野党ところを変えてもどうせ同じだろうと国民は納得し切って批判さえ起きない。行政の実務は放っておいても自治体が始末してくれる。

 新型コロナウイルス感染拡大の最前線東京都は、幸い抜群の人気を誇る小池百合子知事である。その並々ならぬ行政手腕で何とかしてくれるとの暗黙の期待が政府にはある。どう悪く転んでも地元自治体に任せておけば、閣僚や国会が責任を問われることはない。地元自治体の顔色を窺ってから仕事をすれば楽だし責任がない。

 かくして新型コロナウイルス感染拡大は急ピッチだ。政府の判断を待たず早晩医療体制が崩壊するだろう。医療現場の悲鳴を聞こうともせず、「Go-Toキャンペーン」や「Go-Toイースト」を精力的に推し進めるこの国の政府は正気か。緊急事態の発生まで模様眺めで、毎度のことだが"ちぐはぐ"とアンバランスが仲良く同居している。

 世界を覆うこの新型コロナウイルス感染拡大の状況下で、それでも来年に延期された「東京オリンピック」を開催するのだという。こちらも"ちぐはぐ"とアンバランスが、お手々つないで仲良く同居している。IOCのバッハ会長は余程の裏金を手にして、今更中止とは言えないのだろうと拝察する。

 世の中は何がどうなっているのかよく判らないが、結果責任を求められるのは常に国民である。内閣総理大臣ではなく、担当大臣でもない。況してや国権の最高機関とされる国会が責任を負った話など聞いたことがない。象徴天皇は当たらず障らずのことを言っておけば、その地位を脅かされることなど一切ない。全て安泰で"真ん丸ハッピー"である。

 さて新型コロナウイルス感染拡大とどう付き合うか、ここら辺りが"自分流"の思案の為所(しどころ)である。

好き嫌い人生

 人間生きていれば色々な好き嫌いが生じる。人それぞれなので各人各様だと思うが、理屈をつけても善悪や正邪と好き嫌いは一致しないようだ。味と言っても何も食物に限った話ではない。人間同士の場合もあろうし、生き方や職業についての場合もある。暮らしそのものもそうだし、暮らしに必要な住まいや道具類から着る衣服に至るまで、"好き嫌い"は際限なく広く多い。

 一番顕著で明瞭なのが何といっても「食物」で、誰かに教えられたり、押しつけられたわけではないのに、知らぬ間に"好き嫌い"が分かれる。あくまで個人的領域なので、全ての人が平等に「美味しい」と感じるか否かはケース・バイ・ケースだ。日本人を対象にして考えればほぼ万人向きなのがラーメンやカレーだろう。嫌いだから絶対に食べないという人にはまずお目に掛からない。

 但しである。総論的には「好き」であっても、各論段階になると「嫌い」に組みする人が出てくる。例えばラーメンでも"昔ながらの中華そば"を好む人も居れば、こてこての"濃厚豚骨スープ"を好む人も居る。更には"汁なしラーメン"を好む層まで実に多彩である。スープの種類も王道の「鶏ガラ醤油」から「味噌味」「塩味」「カレー味」まであり、それが更に"激辛"や"煮干し味"などに分かれるので、とても一様ではない。

 一口にラーメンといっても実際に供給されているものは種々雑多で、麺の種類も"極細"あり、"極太手打ち"ありで、その中間に位置づけられるのがスタンダードな"中細麺"ということのようだ。麺の断面も丸あり四角ありで、"平打ち麺"と言われる平べったい「名古屋のきしめん」のようなものまである。スープの絡み具合や食感の違いなどそれぞれなので、甲乙を競うなど文字通りの"無駄の効用"だ。

 暮らしに欠かせない食物の中のラーメンだけを見ても多種多彩なので、人間の暮らし全般についての「好き嫌い」に至っては"気が遠くなる"ほどだと合点出来る。最近話題になったアメリカ大統領選挙でも、皮肉を言えば「嘘つき」と「ホラ吹き」が競っただけで、どちらが勝ってもハッピーにはならないことをアメリカ国民が一番よく知っている。政治ゆえ利害が絡みラーメンのスープのようにはいかないが、最終的には「好き嫌い」で決着する。

 超大国アメリカの大統領選にしては、新味がない年寄り同士が罵り合うお粗末振りで、言ったら悪いが最先進国の面影などどこにも見当たらない。両候補者を好きになれという方が土台無理な話だとお見受けした。「善悪」や「正邪」が人目を憚らず堂々と表舞台へ登場する辺りは、どこかの国の「紅白歌合戦」に似た「バカ騒ぎショー」そのものだった。民主主義が"疲労困憊"して来ると権利が乱脈になり、決め手は「好き嫌い」だけになる。

 「紅白歌合戦」が出たついでに言わして貰うが、今年もまた出場メンバーが発表されたようだ。見ても見なくても視聴料を強制徴収する国営放送(?)が、毎年鳴り物入りで大宣伝をする「バカ騒ぎショー」そのものが理解できないが、この番組に出演するしないが芸能人としてのランキングに関係すると聞くと尚更腹立たしい思いが強くなる。国営放送(?)NHKとは何者かを問わねばならなくなる。

 例え話で恐縮だが、どこかの新聞社が勝手に玄関の新聞受けや郵便受けに新聞を投入し、月末に集金に来たらどうだろう。勝手に新聞を投入された顧客は笑顔で代金を支払うだろうか。購読意思がなく、無断で配達された新聞を読まずに玄関先へ山積みしてあったとしても、正当な料金支払い義務が生じるのだろうか。有り体に言えば殆どの顧客は腹を起てて支払いを拒否するだろう。

 新聞は人間が労力を使って配達する。国営放送(?)NHKの電波は目に見える労力なしに勝手にばらまかれている。本来ならそれを気に入った人だけが料金を支払えばよいものを、国営放送(?)NHKには古びて赤錆びた「放送法」という有名無実(?)の法制度がある。この法制度を"伝家の宝刀"にして、格差社会の弱者からも容赦なく視聴料を徴収している。然もその難作業は自ら行うことなく、民間業者へ"丸投げ"である。

 敢えてNHKの悪口を言う気はないが、物事の筋道として料金を強制徴収している公共放送ならば、"眉を顰めたくなる"類いの番組を何ゆえ"くつろぎタイム"に長時間放送するのか。その低俗番組に出演させるメンバーの動向が、何ゆえニュース番組に登場するのか。殆どの番組にお笑い芸人やタレントが出てくるのは、如何なる理由かを説明する義務がある。それなくしての視聴料強制徴収は正当性に欠ける。

 "好き嫌い"が世の常ならば、問答無用で無理矢理支払わされている視聴料に腹立たしい思いをしているユーザーが居て当然で、公共放送NHKであるならばきちんと筋道を立てて説明すべきだ。国民が納得してこその公共放送で、腹立たしく不愉快な思いをして視聴料を支払わされている国民は「その他」扱いか。歌詞も曲も書けずに他人任せの歌を"ご披露"するため、爬虫類のカメレオンの如く派手な衣装に身を包み、腰を振り肩を揺らす面々を見るのが「一年の総決算」だとは誠に"片腹痛い"。

 「バカ騒ぎショー」を楽しいと感じる人も居れば、騒がしいだけの"迷惑騒音"と感じる人もまた居る。"好き嫌い"の宿命が欠かせない低俗番組に多額の費用を投じる理由を説明出来ないならば、納得できない視聴者には視聴料を返金すべきだ。時代遅れで現状にマッチしない「放送法」は廃止して、国民が納得する合理的制度に改正するべきである。赤錆びた法律と制度に安住し、"役立たず"の会長を次々替えて高額退職金を支払う愚はもう沢山である。

 物言わぬ国民にも"好き嫌い"はある。不愉快が昂じれば不信になる。その連鎖を生み続けて反省なき公共放送NHKとは何者か。政府と芸能業界に奉仕する"化け物放送機関"でないと誰が断言できようか。プロパガンダ放送はいつも、国民に気づかれないまま浸透する。"低脳低俗"の先に待つのは何かに、どれほどの国民が思いを致しているだろうか。"好き嫌い"は単なる生理的理由だけではない。生理的に許せる範囲内であれば、むしろ幸せである。

 "好き嫌い"に端を発する世の出来事は無限にある。私は安倍前総理の白々しい「鉄仮面」から透けて丸見えの"嘘"に感嘆した。たまたま目にしたNHKの歌番組に出て来た氷川きよしという歌い手に"鳥肌が立った"。爬虫類そのもののご面相とど派手な衣装、腰を振り肩を揺する仕草に吐き気を催した。一瞬カメレオンが出ているとさえ思った。以来生理的に受け付けないので歌番組は敬遠した。

 人間の感性は種々雑多である。感じる度合いによって愉快と不愉快が分かれる。一杯のラーメンや一皿のカレーに無上の幸福を感じる場合もあれば、私のように安倍前総理や氷川きよしを目にしただけで生理的嫌悪感を覚える人間も居る。愉快と不愉快程度なら許せても、幸せと不幸の段階になれば簡単に許容できない。発展すれば味方と敵に分類せねばならなくなる。ゆえに争いの根本は常に"好き嫌い"が切り離せない。

 単なる"好き嫌い"と思って軽視すると、時には思い掛けない災難に出喰わす場合がある。大小様々ある"好き嫌い"だが、それゆえに人生が楽しくなったり、詰まらなくなったりもする。一度自分の"好き嫌い"を見直してみて、今後どう付き合っていくかを考えてみるのも面白いものだ。多少多災であっても、多彩であるほど人生は楽しい。

快晴の温暖日

 世に"11月小春"という言葉はあるが、どう見てもとても11月とは思えない快晴の温暖日だ。地球が間違えたとしか思えないが、直接尋ねるわけにはいかないのが悩ましい。不都合などあろう筈がなく、健康でありさえすれば陽気に誘われて銀杏並木でも歩きたい衝動を覚える一日だ。天気が晴れて温かいだけで人間は幸せになれる。とうしてかは定かでないが、何やら心浮き立つ気分である。

 病人高齢者はやるせないもので、この快晴・温暖に関わりなく4ヶ月ぶりのCT検査の巡り合わせだ。昼前に車椅子リフトを装備した介護タクシーが自宅へ迎えに来てくれて、そのままエレベーターを降りて車椅子で乗り込む。病院到着後も車椅子のままリフトで降ろされ、そのまま病院の検査室へ直行である。全く歩かず座ったまま検査台へ移り、機械任せで検査が終わる。

 検査終了を待っていた介護タクシーへそのまま乗せられて、2時間足らずで自宅へ舞い戻った。長く繰り返している検査は兎も角として、久しぶりに目にする戸外の景色は秋色が一段と深まって居た。桜などの落葉樹は赤く色づき、枝に残る葉が僅かになって落ち葉が歩道に舞っていた。銀杏が黄金色の輝きを増して落ち葉が車道にまで拡がっていた。木々が去りゆく季節を惜しんで、最後のシンフォニーを奏でるが如き趣に車窓外に目を奪われた。

 温暖過ぎて薄もやがかかり、この季節には綺麗に見える富士山は望めなかったが、心象風景として頭部に雪化粧した富士山が見えた気がした。全ての命に終わりが訪れるのは避け難いが、こんな穏やかな日が続くと不思議に終末を忘れる。希望的観測に過ぎないと判っていても、高い青空の彼方に「希望」が見える気がする。同じく「永遠」が現実のように親近感を増すのである。白昼夢のように儚く消え失せても、何故か心に残るのだ。

 何らの変哲もない日常が急に色彩豊かに見えて面白い。それだけで生きていて良かったと思えるから人生は楽しい。刻々と過ぎてゆく時間の合間に、季節を探してみませんか。間もなく終幕を迎える彩り豊かな日々と対話してみませんか。

便利で不都合な社会

 現代は須く超便利に出来ている。戦争を知る高齢者世代には凡そ考えられなかった現象が次々現実化されて、多少オーバーに言えば「夢の如き時代」が出現している。街の随所に食料品を売る店が溢れかえるほどある。自ら調理しなくても世界中のご馳走を口にすることが出来る。自ら額に汗しなくても、パソコンやスマホなどの端末を利用してリアルタイムで世界と繋がって連絡できる。莫大な利益を得るのも難しくはない。

 新型コロナウイルスの感染拡大で改めて認識させられた事例に、在宅勤務という新しい就業形態があり、「テレワーク」という名と共に急速に普及した。コロナの感染防止のために勤務する会社に来なくていいという。パソコンが1台あれば殆どの仕事を会社にいるのと変わらず、ほぼ処理できるということを誰が予想したであろうか。額に汗するどころか全身汗まみれになって、満員電車に押し込まれて通勤した昔が遠くなった。

 何より驚きはいつどこでも電話やメールで連絡できることが、「当たり前」になったことだろう。リアルタイムで連絡が可能になったのが往年のポケットベルで、会社や家庭を問わずピーピーという呼び出し音が鳴り響いた。それ自体通信技術の一大革命で、次いで登場した携帯電話は初期段階で「圏外」が多くて容易に繋がらなかった。それでも我が身と一緒に移動可能な通信手段は便利きわまりなく、高額料金にも関わらず急速に普及した。

 いつでもどこでも誰とでも連絡できるということは、強制ではなくても四六時中束縛されている状態を生み出し、現在は膨大な通信記録を利用する「ビックデータ」が新たな利益を産み出している。解釈次第では年中警察の尾行を受けているが如き状況が、誰にも気づかれずごく「当たり前」に出現している。個人情報保護法が制定されたのは大分前だが、それとは別に「個人情報」が私たちの知らない広い分野で利用されている。

 商品の購入についてもデパートへ出向いて物色したのは過去になり、今は送料無料でデパートより安く購入できる通信販売が広く利用されている。パソコンやスマホで通信料金も掛からず利用でき、地域によっては注文したその日に商品が届く。持ち運びの手間が不要なので極めて便利で、商品画像や豊富な情報で選択が可能だ。この便利さを利用しないのは今や"時代遅れ"の観さえある。

 ところがである。便利で快適なものには大抵何某かの"有難迷惑"が隠れている。電話が世界中の誰とでも繋がるということは、言い換えれば常時見知らぬ誰かに監視されているということでもある。誰かがその気になって調べれば、いつどこで誰と話したかだけではなく、毎日の行動記録それ自体も把握可能だ。事細かに足跡を追跡することが可能だ。便利で快適な裏面には、常に見知らぬ他人に裸身を曝している危険が潜む。

 買った商品を無料で配達してくれる極めて便利な通信販売も、いつどんな商品を注文したかの詳細な情報がデータとして記録される。翌日乃至翌々日には購入商品の関連商品が次々案内メールで届く。食品から衣料品、生活雑貨、家電商品から家具まで、あらゆるもの案内広告が次々来る。それも食品の味好みや衣料品のデザイン、色や形に到るまで本人嗜好に添っているから「薄気味悪い」ほどである。

 フリータイムで在宅勤務が可能になり、サラリーマンの宿命だった"身柄拘束"が消え失せた。自由を手にして満面の笑みがこぼれるかと思いきや、予期せぬプレッシャーが重くのしかかっている。上司や同僚の目を盗んでの"サボり"が出来ず、勤務時間に関わりない仕事量を消化せねばならない。矢張り便利で快適には有難迷惑な"おまけ"が付くようだ。好むと好まざるとに関わらず手に入る「便利で快適」は、押しつけがましさが度を超すと「不快で不都合」に急変する。

 誰かの作為に満ちたコロナ禍は、"自由な不自由"や"便利な不便"が溢れるこの時代を反映して、人工的な「不都合」を押しつけている。人間が主体的に生きる人間社会なのに、他者の都合に合わせなければならない「忍耐」が求められる。自分の人生なのに、必ずしも自分の思い通りにならないジレンマが数多くある。「便利で快適」であるべき筈が、無意識のうちに私たちを「不自由で不都合な世界」へ招いては居ないか。

 誰しもが無限に己の利益を求め続ければ、究極は他者の利益を収奪して圧迫する"迫害"に行き着く。利害の衝突が起きて民族間、国家間、地域間の紛争を生み出すだろう。便利さの様相が一変して、エゴとエゴとがせめぎ合うゴールへ辿り着くだろう。快適の前提になる豊かさを維持するために、強者が弱者を食い潰す現象が起きるだろう。既に大小様々な利害の対立が現実化している。強者や大国は常に覇権を求め、弱者や途上国を踏み潰す宿命を有するのである。

 言葉や文章にすると大袈裟に思える「便利で快適」は、多くの場合無意識に行われるので目に見えない妖怪の如くに忍び寄ってくる。目の前に現れるまで殆ど気がつかない。それほどに強烈な"毒気"を有するのだが、大抵は謎に包まれていて中身が判らない。私たちの身の回りに溢れる「便利で快適」は、今日も明日も世の中に歓迎されて使われるだろう。その際限なき"欲望"の行き着く果てには一体何が待つのだろうか。

 都合が良いのと、不都合とは、結果が現れるまで判然としない。便利なつもりがいつの間にか「不便」に、快適が「とんでもない不都合」にならない保証はどこにもないのである。それでも私たちは今日も溢れるような「便利で快適」に囲まれて生活している。