獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

川端康成が絶賛した孤高の書人 遊記山人

 明治24年広島県生れ。平成4年没101歳。大正4年中国上海・東亜同文書院卒。商社マンとして高級葉たばこ買い付けのため中国大陸各地を巡り歩き、その過程で清朝時代を代表する文人・墨客と交流を深める。大正9年外務省情報部に嘱託(現在の顧問)として招請され帰国。松岡洋右広田弘毅吉田茂等と同僚になる。
 大正11年役人には向かぬと退職して東京初の広東料理店「山水楼」を開く。本場から一流料理人を招請したその開業は話題になり、しだいに犬養毅平沼騏一郎を始め政財界のお歴々に加え、高松宮家、徳川家、細川家等皇族・華族方の参集する社交場として有名になる。豪壮な洋館・日本館2館を擁し、向かい合う帝国ホテルと共に東京の名所となった「山水楼」は、満州国皇帝の弟溥傑、頭山満徳富蘇峰、宮島詠士ら墨客としても名高い人々が集った。

 ちなみに「山水楼」の看板は満州国国務総理になる鄭孝胥の名筆で、この人は「字源」の監修者として著名な文学者である。昭和13年国葬に、山人は民間人としてただ一人招かれ出席して話題になった。
やがて文壇・画壇にも常連が増え、村松梢風吉川英治川端康成棟方志功らは足繁く通ったことで有名である。日本民芸運動にも参画し、柳宗悦浜田庄司保田与重郎棟方志功土門拳式場隆三郎らと共に、後に歴史的に注目される"沖縄旅行"をしている。

 遊記山人の生涯で、一大転機となったのが昭和20年1月の東京空襲でした。銀座方面が直撃され、250キロ爆弾に見舞われた山人の「山水楼」は一瞬にして壊滅しました。全従業員が即死で、殆どは遺体すら確認できない惨状になる。「山水楼」空襲の知らせは陸軍参謀本部を通じて、開会中の国会や皇居へと伝わり、多くの軍の幹部や国会議員、侍従・女官らが駆けつけました。誰もがその眼を疑った"奇跡"はその時に起きました。
 瓦礫の山と化した焼け跡で、「延命十句観音経」を唱える声が風に乗って聞こえたそうです。現場に居合わせた軍幹部の命令で、直ちに消防の立ち入り禁止が解除され一帯を捜索したところ、爆風で出来た深さ10メートル位の大きな穴の中に、瓦礫の下敷きになっている意識不明の遊記山人が発見されました。直ちに病院へ運ばれた山人は、翌日奇跡的に意識を回復し、発見された現場に落ちていた陶磁器製の観音像が関係者から届けられました。
 爆風を浴びて数十メートル吹き飛ばされ、偶然地下の穴へ落ちたために一命を取り留めた山人と、共に破損することなく発見された陶磁器製の観音像は、当時奇跡の出来事として話題になりました。病院へ見舞いに駆けつけた徳富蘇峰翁によって「慈航観音」と命名され、居合わせた読売新聞社正力松太郎氏から伝わった情報が新聞、ラジオで報じられました。近年まで多くの出版物に掲載されて「奇跡の生き仏」として有名になりました。
 その出来事が広く人口に膾炙するに及んで、徳富蘇峰川端康成棟方志功氏等を中心にした有志連合ができました。更には臨済宗合同管長足利紫山、曹洞宗管長高階瓏仙両師が賛同し、東京高輪の泉岳寺観音堂建立が決まりました。薄く広く浄財を募ることになり、その一環として山人は初めて自らの「書展」を開くことを決意しました。泉岳寺小坂住職の計らいで、有名な赤穂義士のお墓の真上に位置する小高い丘に観音堂は建っています。「慈航観音会」が設立され、春秋の例大祭には多くの人々が集い賑わっています。

 若くして中国上海へ留学し世界の文化に触れた山人は、分けても中国伝統の書文化に格別造詣が深く、そのことは「大漢和辞典」の編纂者で文化勲章を受章した諸橋轍次博士が親密に交流し、幾多の日中の著名な学者の方々が「山水楼」を訪れている事実が証明している。知る人は少ないが、東京荻窪の旧邸は書籍と資料に埋め尽くされ、多くの研究者が身震いするほどの勉学の跡をとどめている。
 中国で多くの文人・墨客と交流し、日常的に我国の代表的な書人が集う中心に居て、直接日中の真髄に位置する山人の書は、早くから注目され話題になっていた。決して世に出ることを好まず、それゆえに公表されることがない『幻の書』として有名で、その逸話は川端康成氏のエッセーに詳しい。川端氏が狂喜した遊記山人の書は、それまで日中を代表する墨客が等しく認めた別格の存在として、その後に川端氏が発表した多くのエッセーが文芸誌に掲載され世に知られた。
 ただそれまでも、外務省と東亜同文書院のOBを中心にした漢文と書作の同好会「東翠会」があり、昭和天皇の書道ご進講を務めていた元中国公使清水董三氏と山人は東亜同文書院の同級生で無二の親友であるため、ご両人が代表になって毎年日本橋三越で発表会が開かれていた。この発表会は同好会とはいえ、ワンマン宰相として鳴らした吉田茂氏がポスターを書く役目を担い、皇族方が多数臨席される我が国随一の格調の高いもので、ここで発表される清水氏と山人の作品に注目と話題が集中した。外部からの参加希望者が続出し、現役の大使、公使に混じって伊勢神宮明治神宮宮司永平寺方広寺大徳寺等の老師、文壇・画壇の面々等が参加した。いずれも遊記山人が受け継ぐ中国古来の文人書流を慕い求める人たちで、中には著名な書家の方々も少なくなかった。
 
 清水氏亡き後は、呉昌碩、斎白石、王一亭、楊守敬、康有為等の巨星を知るただ一人の日本人になり、空襲で聴力を失ったことから自ら創業した山水楼を退き、日夜書作に没頭する日々が多くなった。
 若き日に白隠禅師の著作を読み、それ以来の日課となった「延命十句観音経」の読唱は生涯続けられ、深夜の書斎で自ら墨をすりながら唱える声が庭を越えて門外にまで聞こえた。郷里の広島県比婆山中に湧き出す名水と、八ヶ岳山麓の名水で自らが命名した「延命水」を用いる清廉性を生涯保持し続けた。徳富蘇峰が愛用した文房四宝の名品を受け継ぎ、台湾の蒋介石総統から吉田茂氏へ贈られた数々の名品が、更に吉田氏から山人へ贈られ、毎年のように皇室や各宮家からも書作に用する名品が山人へ贈られた。筆に添って曲がった右手人差し指は、連日半切紙50枚以上の書作を欠いたことがない遊記山人の、伝説的日常を無言で物語っている。以下の和歌は山人の自詠である。

   『年久しく墨研り筆執りいつのまにか人指し指先右に曲がれり』
   『千本の筆を投げ捨て万枚の紙をつぶしてなお文字ならず』
   『はらわたをさらけいだしてはづかしや心のしみの文字にのこるが』
   『うまいとかまづいとかいふかぎり文字のうちには入らぬと知れ』

 壮絶なまでの書作と、あくなき人格の修練は、その作品に接した人々に強い衝撃と感動を与え、大きな話題として広がった。有志の間で山人の「書展」開催を望む声が高まり、川端康成氏はとりわけ熱心に懇請した。そうした声に押されて、銀座壱番館画廊で「慈航観音堂」建立資金勧募をかねた初の書展が開催された。関係者以外には公表されなかったにも関わらず、数多くの人々が会場を埋め2日にして全作品が完売する快挙となり、直後に追加展を開催する異例の事態になった。
 相次ぐ希望に抗しきれず、芸術新聞社、慈航観音会主催の書展が開催されるが、そのいずれもが山人の要望による関係者のみの「慈善書展」であった。多くの墨客が評した「至純・至高」の遊記山人作品は、その孤高さゆえに商品化を拒み、終生その品格を失うことがなかった。追随を許さぬ独自の境地を保持しつつ101年の生涯を閉じるまでその香気を放ち続けた。
 生前交流があった永平寺の高階瓏仙禅師は、山人を評して"禅者に勝る禅者"と称えた。童心に満ちた純粋で高潔なその人格は、多くの人々に忘れ得ぬ感動を与え続けたのである。

 生後間もなく中国山地の奥深い禅寺へ預けられ、苦学力行して身を立てた事実を知る人は少ない。大正初年に当時世界の中心都市であった中国上海に留学し、世界を見据えながら東洋文化の復興を願い続けた不世出の巨人であった。
 数多くの逸話と伝説を残して平成4年遊記山人は去った。見守る娘さんたちの手を握り、「ありがとう、ありがとう」を繰り返しながら静かに息を引き取った。「孤往の書人宮田遊記山人逝く」芸術新聞社発行の季刊誌「墨」は平成5年第100号でそう報じた。追悼文を書いた評論家疋田寛吉氏は「書人外書人最後の巨星であった」とその死を悼んだ。疋田氏は、川端康成氏唯一の書の弟子であり、遊記山人の熱心な研究者でもあったが今は亡い。

 遺作の多くは生前、広島県・西城町に建設された記念館や、ゆかりの深い泉岳寺に寄贈された。
また、山人の遺跡は泉岳寺の「慈航観音堂」の他に、山梨県八ヶ岳山麓の「観音平」に徳富蘇峰翁や足利紫山老師、川端康成氏に並んでの記念碑がある。山人が命名した「観音平」は現在富士を望む観光地として賑わっている。広島県の帝釈峡にも山人の記念碑が建てられている。更には有名な東京・銀座の「みゆき通り」も、命名者は遊記山人である。
 芸術新聞社発行の季刊誌「墨」昭和63年第67号に遊記山人特集があるほか、疋田寛吉氏の著書平凡社刊「書美求心」、芸術新聞社刊「川端康成魔界の書」に山人の書についての記述と紹介がある。愛知県在住の弁護士佐野公信氏の「観音信仰のすすめ」は山人の観音信仰と慈航観音の霊験を紹介している。
他にも数多くの書籍や雑誌に掲載されているが、残念ながら現在絶版で入手は難しい。僅かに慈航観音会が発行した非売品が残るのみである。
 
 そして昭和41年12月山水楼丸の内本店の新装営業を記念して、皇太子殿下(現陛下)ご夫妻ほか全宮家がご来臨、我国史上初の民間店ご会食や、昭和天皇ご在位50周年、60周年記念のご会食等を拝命、棟方志功東山魁夷画伯がそのメニューの装丁画を描く等の伝説的な業績で知られた山水楼が平成14年3月、80年の歴史を閉じた。創業者遊記山人宮田翁の逝去から10年後の、ドラマチックでかつ静かな終幕であった。


こういう人こそ、本当の風流人と言うべきではないかと思う。世間には随分風流人をもって任ずる人がいるが、そういう人には得てして鼻もちならぬ臭さがある。宮田さんにはそれがない。水の如く淡々として一見平凡老子の、いわゆる「良粟は深く臓して虚しきが如し」が、宮田先生に当ろうか。                
(鐡舟会会長・高歩院住職 大森曹玄)

巧を求めない書、人と競わない、謙虚で、滋味深い書、いささかも低さや卑しさのない書、遊記山人の書には専門家の書に無い、すべての良さがあります。篆刻についても同じことが言えるかと思います。  
(東宮御所書道ご進講・書家 桑原翠邦)

現在私が知っている日本人で、遊記山人ほど東洋的で、中国の大人といった感じの人はいない。その書も篆刻もすべてこの人の人格を表わして、日本人を超え壮重典雅である。長い人生の経験と、自分に対する厳しい抑制、それに東洋的な教養が、そのすぐれた人格と作品を作りあげたと言える。語ることの多い筈の七十余年を黙然として、今はひたむきに作品を残すことにかけておられる。本当に大悟した大人の姿とはこれを言うのだと、かねて畏敬しておかないところだ。                      (国学院大学名誉教授 樋口清之)

大善人です。何十年前にも、今もその大善人の普渡の在方は不変であります。本当に大人という人と成りを学び居ります。書も歌も篆刻も、そのさま大人様であります。いささかも乱れのない書容文容篆容であるのです。 
(板画家 棟方志功)

                       (平成元年発行「白寿遊記山人の書」より転載、版権者許諾済)