獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

悪徳の栄え

 どこぞで見聞きしたタイトルだと思われた方は紛れもなく「教養人」だ。今節「知識人」しいう言葉が多用されているが、マスコミに登場する「知識人」という人種は言葉とは裏腹に殆ど専門知識に乏しい。単に「知識人」を装っているだけの底が浅い人種を意味するようだ。ゆえに真に知性と教養を備えた方々を、「知識人」と呼んだら大変失礼である。

 "悪徳の栄え"は言わずと知れた著名な本のタイトルだ。しかし、ここでは直接関係がないのでその説明は省略する。ここでの問題はそもそも"悪徳"とは何かということだ。悪徳と対照を成す言葉としては"善徳"が思い浮かぶが、実際には殆ど使われていない。そのことが意味するように、善意に満ちた行いは「普通のこと」として扱われる。

 性善説性悪説を説く気はないが、今更言うまでもなく「悪」と「善」は人間社会に深く根ざしている。誰しもが何となくそれを認め、そして受け入れている。人それぞれに違いはあっても、家族や学校などで学んだ原初の知識として心に蓄えている。けれども現代社会はその各自が持つ善悪のボーダーラインが不明確だ。

 どこで何を間違えたのかは各説があるが、小難しい"理屈のための理屈"を並べてもしょうがないので、実例主義で事実を拾い上げた方がより理解しやすいだろう。少し前の時代までは、医者と弁護士は知性派社会人として認識されてきた。しかし実際には「儲かる医学」を実践している医者が少なくはないし、弁護士に到っては無用に裁判を長引かせて己の利益を計る輩が山ほどいる。

 医者や弁護士ばかりではない。総体的に見れば医者や弁護士は一部で、不景気の時代に在っても史上空前の利益を挙げ続ける大企業が数多くある。世の中の停滞や低迷などどこ吹く風で、然もその史上空前の利益を社員には還元せず内部留保と裏金の原資にして、「悪徳商法」を合法化するための「政治献金」に化けるのである。

 "赤信号みんなで渡れば怖くない"という標語が昔流行った。ご記憶の手合いは高齢者世代だろう。"歴史は繰り返す"という格言もある。いずれも当節はセピア色の事象になったが、いつの間にか記憶から遠のいたそれらの事実が、またいつの間にか蘇っているのにお気づきだろうか。

 企業社会の論理はとうの昔に善悪を超えて、利益を得るためなら戦争のための兵器を造ることさえ「善」なのである。人間が人間を殺傷するという究極の行為すら理屈をつければ「善」になる。それを持論とする大企業経営者が現実にいる。現在は経団連の名誉顧問として安倍政権の「骨太の方針」 策定にも関わる榊原氏だ。

 何ゆえ人間社会は戦争を生み出すのか等と、寝惚けた議論をしている場合ではないのである。そんな議論や理屈は「知識人を装う」人種に任せておけば良い。現実の人間社会は理屈を超えて実態を生み続けている。"右翼"という言葉が死語化している現代は、安倍政権が「極右」だと認識する人を少数派にした。大勢に付和雷同して、"赤信号みんなで渡れば怖くない"のである。

 そんな時代に今更のように「善悪」を論じても、笑い話にしかならないだろう。祭りの神輿同様に"みんなでワッショイ"して、あぶく銭からこぼれ落ちる果汁を飲む以外の選択肢は用意されていない。基本的人権が保証された先進国として、医者や弁護士ばかりでなく全ての職業に自由が与えられている。

 どこそこの政治家が巨大利権を貪ろうと、悪徳企業の悪徳経営者が巨万の利益に有りつこうと、言うならば「振り込め詐欺犯」だって、みんな等しく人権があり、自由があるのだ。迷走する司法にそれらを裁く裁量はなく、実行した人間の「やり得」である。誰がそれらの事実を「悪徳」と非難できようか。

 人間が人間を騙すことが犯罪ならば、世の企業の大半が犯罪者集団になる。連日溢れているテレビCMや新聞・雑誌の広告には、大なり小なり「嘘」が隠されている。バラ色の夢を描いて見せて、消費者の購買心を掻き立てている。女性の化粧品がそうであるように、使った女性が皆美人になるわけではない。それを知りつつ私たちは甘んじて騙され続けているのだ。

 我が国は古来中国渡来の仏教に影響を受け、「金儲け」を賤しい行為として蔑視してきた。徳を尊ぶ武士道精神が長くモラルの基本であった。敗戦で失ったものは数知れないが、日本人が日本人であることの自失が大きい。日本人としての気質や基軸が見失われ、グローバリズムに代表される外来思想と文化が、いつの間にか定着した。日本人としての議論が棚上げされて、とにかくコピーすることが優先された。

 懐古趣味で古いものを礼賛する気は毛頭ないが、かと言って新しいものに飛びつく軽薄さもない。新旧の別を超えて「良いものは良い」し、「悪いものは悪い」のである。「善悪」のボーダーラインは時代と共に変化するし、現実に明治・大正の世に比べれば逆転している価値観が少なくない。

 だから現状是認で"みんなでワッショイ"で良いのかどうか、立ち止まって振り返る必要はないのかが問われている。「善」は善として、「悪」は悪として、白黒をハッキリさせて認識すべきなのではなかろうか。それなくば世に蔓延る「悪徳」が益々栄えるのみであるように思う。

 邪な「悪徳」が放置され、真っ当な社会正義がないがしろにされている実例は、北朝鮮の「デタラメ共産主義王朝」(?)による拉致問題が実証している。こんなデタラメがいつの間にか「真実」に化けて、国際社会の規範になるのは断じて容認できない。やはり「悪徳」を栄えさせてはならないのである。