獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

歌は世に連れ、世は歌に連れ

 「歌は世に連れ、世は歌に連れ」と昔から言われる。事ほど左様に歌は人間生活と深く関わってきた。特に大衆歌謡と呼ばれる分野は、それぞれの時代の世相を反映して人々に親しまれ、愛されてきた。戦前・戦後は長く「流行歌」と呼ばれて、文字通りの"流行り歌"であった。歌うことを職業とする人たちが現在のように多くはなく、(故)藤山一郎に代表される音楽学校で専門教育を受けた人たちのプロの職業と認識されていた。

 戦後暫くは戦前から活躍した霧島昇藤山一郎岡晴夫田端義夫李香蘭(後の山口淑子)などの時代が続いたが、敗戦でアメリカの統治国となった我が国は、音楽でもその影響を強く受けた。洋楽と呼ばれたアメリカの大衆音楽が米軍基地から流れ込み、それをコピーして米軍キャンプなどで演奏するのが流行した。音楽産業の担い手であったレコード各社が新人歌手の発掘に熱を入れ始めて、洋楽をコピーする歌手が次々誕生した。

 日本人の作詞家と作曲家で生まれ、日本人歌手が歌う「流行歌」が全盛の時代に、新鮮でちょっとハイカラな「洋楽」は、戦後の復興ムードに乗って急速に浸透したのである。当時の社会を形成していた多くの一般大衆に支持された「流行歌」と、若い世代を中心とした学生や労働者層などに支持層を広げた「洋楽」とが、共存する時代が50年代、60年代と続いた。

 敗戦からの復興が軌道に乗るのに合わせるように、我が国のポピュラー音楽が大きく変化し始めたのは、「洋楽」分野でアメリカの若者エルビス・プレスリーの登場からだ。8ビートの激しいリズムに乗ってステージ上で荒れ狂う「ロカビリー・ブーム」が到来し、そこで育った若者たちが「ロックンロール」に発展して60年代を揺さぶった。

 ポピュラー音楽史上に輝く68年のアメリカ「ウッドストック」は、イギリスから登場した「ビートルズ」と並んで、混乱期の世相を反映して世界のポピュラー音楽を一変させた。それまで主流だった4ビートのジャズに代わって、8ビートの「ロックンロール」が世界を席巻したのである。そんな世界の潮流とは別に、我が国の大衆歌謡はレコード産業が主導して徐々にポップス色を強めながら、若い新人発掘に明け暮れていた。

 白黒テレビがカラー化され、70年代には"見栄えが良い"若い女性歌手が人気を博した。世に言う「アイドルブーム」である。急速に力をつけた新興勢力の芸能プロダクションが台頭し、テレビ各局の歌番組を取り仕切った。芸能プロ主導だから歌の上手い下手は二の次で、とにかく「大衆受けする人気」に主眼が置かれる現在に到る路線が定着した。

 どのチャンネルにも似たようなアイドル歌手が登場したことから、フォークやロック分野で熱心に音楽を志す若者はテレビを敬遠した。フォークの吉田拓郎井上陽水などがその代表格で、荒井由実(現在の松任谷由実)などポップ派もいた。本来の音楽性を重視するファンやミュージシャンと、その後に一世を風靡したピンクレディーなどの大衆娯楽的な「見せる音楽路線」とに二分されたのである。

 一時期は明瞭であったその垣根が徐々に崩れて、現在はそれぞれが歩み寄ったというか、区別がないがしろにされて、混然一体になった"ごちゃ混ぜ状態"である。注意しないと何が何だか分からない、そんな混沌状態にある。両者に共通して見られる現象は、とにかく大衆受けして「売れる」ことで、そのためならば女性歌手が過剰に肌を露出したり、男性歌手がメイクして派手な衣装を纏うことなどが当たり前になった。

 オールド・ファンとしての感慨は「心動かされる歌」が減った。テクニックに長けていてもそれが感動を呼び、長く心に残る歌であるかどうかは別物だ。上手下手で言えば皆が等しく上手だが、上手であるが故につまらない歌が多過ぎる気がするのである。少数派になりつつある演歌は、相変わらず大御所(故)古賀政男の亜流が"背比べ"をしていたが、船村徹が亡くなって主流が見え難くなった。

 その亜流ソングを歌うのが昔言葉で言えば"チンドン屋"の如き、お兄チャンだったりお姉チャンである。どこが面白いのか分からないが、男性・女性を問わずお決まりの"猿芝居"の如きダンスを披露している。歌は言うなれば「刺身のつま」である。歌手が歌で勝負したのは過去の時代で、現代は何やら物欲しげな妖しい風体を強調する時代らしい。歌で勝負できるのは、男女を問わずオールド歌手ばかりの様相だ。

 満足に「歌を歌えない歌手」という珍奇な人種が登場したのは70年代の「アイドル時代」だが、それらの歌手が抵抗感なく世に受け入れられて,以降は上手下手やテクニックを超えた「個性」の時代になる。アメリカのジャニス・ジョブリンやボブ・ディラン、イギリスのビートルズなどに迫ろうと、我が国のポピュラー音楽が一斉に背伸びする時代を経て、正統と亜流の垣根が取り払われたマイケル・ジャクソンを追うコピーだらけになる。

 「歌は世に連れ、世は歌に連れ」の言葉は現代にも生きていると思うが、明確に時代を映す鏡が多くあり過ぎて、その中のどれが時代を象徴しているのかに議論が必要だろう。大量生産されて、大量に消え失せていく楽曲の殆どは「商品」だ。人の心に残るよりも、どれだけの売り上げを記録したかが重要視される。どうすれば売れるかが研究され、空虚に響くハイテク・ミュージックが増え続けている。

 それなりの進化が著しいポピュラー音楽だが、人の心に響かず残らない楽曲に囲まれる時代が果たして豊かで幸せなのであろうか。オールド・ファンはそれを危惧している。