獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

渡辺貞夫ニューヨーク「ブルーノート」ライブ

 久々に"サダオさん"に接した。と言ってもテレビを通してのことだが、まず驚いたのが御年86歳とは到底思えない、変わらぬ風貌だった。そして何より嬉しかったのが、"サダオさん"の"サダオさん"らしい音楽性だった。ライブの最後に演奏された「花は咲く」のストレートなメロディーラインを耳にして、思わず熱い涙が込み上げた。

 放送が深夜の時間帯だったのでリアルタイムでの視聴が出来ず、録画して翌日お目に掛かった。私が"サダオさん"と親しみを込めて呼ぶのには訳がある。お互いが高齢者になった現在、振り返れば随分長い関わりであった。「ナベサダ」として有名だった"サダオさん"から、面倒だからお互いファーストネームで呼び合おうと提案があり、以来ずっと続いて50年以上になる。

 サダオさんがバークレイ音楽院へ留学する前の、秋吉敏子さんのコンボで世に登場した頃から演奏は聴いていた。有名になったバークレイから帰国した夜の「銀巴里セッション」を知っているオールド・ファンである。アメリカのコピーが全盛だった50年代・60年代に、いつか日本人の感性によるジャズが登場しないかと期待して聴いていた。

 銀巴里以後の「ナベサダ」は超人的で、次々に有望な新人ミュージシャンを抜擢して一緒に演奏した。ピアノの佐藤允彦、大野雄二など慶応勢に加えて、後にはサダオさんに同行して世界のジャズ祭に出演巡行したギターの増尾良明とベースの鈴木義男(文字違い?)の早稲田コンビなどである。芸大組にはピアノの菊池雅章、ドラムの富樫雅彦などがいた。当時の日本のジャズ界は、「ナベサダ」コンボに登場することがジャズ・ミュージシャンとして認知されることであった。

 長く数多くのサダオさんとの関わりは枚挙の暇がないほどだが、銀座にあった所属事務所のダン・山田社長、新宿「ピットイン」の佐藤支配人、銀座7丁目にあったジャズクラブ「ジャンク」の楊オーナーなど、音楽現場でお付き合いした皆さんとの思い出も数多い。レコード各社のスタジオでの徹夜レコーディングで、差し入れを受けた"中華まん"の味も忘れ難い。それぞれの現場にサダオさんがいた。栃木弁でのジョークがあった。

 サダオさんの歴代マネージャーでは平床、鯉沼の両氏とは特に関わりが深かった。数多いライブの現場では資生堂がスポンサーの記念碑的なものから、世間に知られていない地方での小規模ライブ・セッションなどが記憶に生々しい。特に青森のジャズ喫茶「BUD」での深夜セッションは毎回白熱した。他では絶対困難なニュージャズ系ミュージシャンとの顔合わせも度々実現し、日本のジャズシーンに強い刺激をもたらした。

 サダオさんの音楽性は変わらない。良くも悪くも「ナベサダ」そのものである。チャーリー・パーカーの影響を受けてアルトサックスを吹き始め、「ビ・バップ」を極めて数多くのアメリカのミュージシャンと共演した。ジャズの本場で「ナベサダ」の名声が不動になっても、サダオさんは相も変わらぬ栃木弁丸出しのサダオさんである。

 栃木人は頑固な人が多いようである。演歌の作曲家として名高い船村徹も、頑固で有名であったらしい。若しかしたら、このご両人には共通点があるかも知れないと私は思っている。一見違う世界の住人のように見えても、この両者には根強く残る「日本人らしさ」があるように思う。火を噴くような「ナベサダ」の演奏の底に流れるのは、船村徹に通じる哀愁を帯びた郷愁だ。

 テレビ画面で接したサダオさんの演奏には、往年の肩を盛り上げて汗を迸りさせながら狂ったように燃える情熱は薄らいだ。だがしかし、目の前のテレビ画面に映っているのは紛れもなくサダオさんだった。年齢を重ねて研ぎ澄まされた感性が醸し出す音楽は、純化されて余計な装飾を取り払ったシンプルさが胸に沁みた。アメリカで生まれアメリカで育ったジャズが、「ナベサダ」の中で熟成されて日本的感性を得ていた。

 サダオさんと直接会って語らう機会は多分ないと思うが、例えその機会が訪れたにしても下戸の私は酒席を共に出来ない。恐らく変わらないサダオさんのキラキラした眼で見つめられると言葉が出て来ないだろう。無言で笑い合って、頷き合って、暗黙の時間が過ぎていくことだろうと思う。ジャズとは、音楽とは、人の心が重なり合って熱い大きな塊になる。

 この世に生きて動ける間に、機会があればサダオさんを聴きに行こうと、そう思い、そう感じた晩秋の一日になった。