獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

音痴の時代

 この度テレビで久々にアメリカのオーケストラ、フィラデルフィア管弦楽団を視聴する機会に恵まれた。その感想を書いたので、改めて音楽とは何ぞやという重いテーマと向き合わざるを得なくなった。改めて向き合わなければならないほど、音楽という芸術から縁遠くなっている現実と実生活を考えた。

 豊かだと言われている現代は、善し悪しを別とした資本主義の市場原理社会である。兎にも角にも「売れる」ことが唯一無二の絶対値社会だと、言い換えることも出来る。音楽に限らずすべての芸術分野が、同じ宿命を負っていると考えられるが、当然の帰結として「大衆化」を避けては通れない。

 歴史や伝統が都合良く弄ばれるのは何も現代に限った話ではないと思うが、資本主義が行き着いた観が強い現代社会は、「売って」利益を得るためならば極論すれば殺人さえ合法化して憚らないだろう。その現代に芸術性を云々すること自体に意味があるのかどうか、甚だ疑わしい。それでもなおその芸術性に拘らなければならないところに、現代社会が直面している深刻な課題がある。

 未曾有の敗戦を体験した後も教育の機会均等は図られてきた。貧しい時代に実現していたことが、豊かだとされる現代には色々な分野が一部の富裕層に特化される現象をもたらしている。音楽の世界はその傾向がより一層顕著で、幼少時から著名な指導者や演奏家に師事することがクラシックの分野では常識化している。各種のコンクールでは、そのエリート教育の成果が判断基準になっている。

 純粋な本人の才能や実力よりも、誰に師事したかと大衆受けする「人気度」がものを言うのである。究極目的は「売れる」ことだ。そうした資本主義社会のシステムが完成していて、その絶対値にマッチすることが素質として評価される時代だ。その癖演奏される音楽そのものが、大衆に寄り添う身近なものとは到底言えない。

 クラシック音楽がエリート化して富裕層とそれに準じる階層の「遊び」になるにつれ、そこから弾き出された一般大衆は満足な音楽教育を受けていない。お茶を濁す程度の学校教育しか、直接純音楽に触れ合う機会がないのである。それゆえに身近で耳にする「商業音楽」に飛びつき、音程も音階も関係ない「騒音」や「雑音」の類いを音楽として受け入れている。

 様々なメディアを通して半ば強制的に伝わる「商業音楽」は、小難しい理屈を必要としない。体感的に親しみを持てるか否かで判断され、結果として「売れる」ものが「良い音楽」になる。時代毎の「流行」だから、何も"目くじら"立てるほどのことではないとの意見が多数派だろう。満足な「音感」を欠く若者が増え、やがてそれらの若者が親になる。

 親が親なら子も子で、社会の大半がそれらの『音痴』で構成されるとしたなら、次の時代はどんな時代になるのだろうか。それでも「日本は豊かな先進国だ」と胸を張れるのだろうか。繊細で細やかな日本人の日本的情感が失われたならば、日本が日本として因って立つ足場が失われることに直結する。たかが音楽されど音楽である。