獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

名残の黄葉(こうよう)

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 秋の風物詩は「紅葉」である。しかし、我が家のベランダから見える目の前に迫る小さな森は、雑木林が色づきさながら黄金色の錦模様だ。カレンダーは最早12月で秋は終わっているのだが、東京多摩の秋はまだ終わっていない。銀杏は殆どが散り急いだが、それでもまだ鮮やかな黄色を留めている木々が残っている。

 人はややもすると安直に「秋の紅葉」と口にするが、自然界の樹木は赤が主役ではない。日本の風土に多いのは黄色や茶色に色づいて散り落ちる広葉樹が多数派だ。楓や桜などの赤系は大抵人の手を介して育つが、雑木林の主役はそんな「千両役者」ではない。人知れず自力で芽吹いて成長した「脇役」たちである。

 芝居の舞台は名脇役たちが主役を引き立てるが、自然界には人為的配慮は一切ない。それぞれが己の宿命を負って生きている。新緑が芽吹く時期はほぼ一緒だが、葉が枯れて散り去ってゆく時はそれぞれである。人の目に映る光景は同じように見えても、毎日少しずつ旅立つものとまだ留まるものとが交差している。

 それぞれの命が精一杯輝いた暑い夏が過ぎて、未来へと命をつないで葉は役割を終える。風を友に「生命の賛歌」を歌い上げた"ゆらめき"が静まり、一瞬の静寂の中でレクイエムを聴き届けて、己の運命の終わりを知るのである。「黄葉」はそんな葉々たちが奏でる惜別のシンフォニーだ。最後を告げる壮麗な交響詩である。

 人間界の様々な想いを余所に、声なき声を残して雑木林の森は間もなく葉を落とす。それぞれ鮮やかな彩りを添えた色彩の季節が終わりを告げて、雑木林の森は無彩色になる。静まり返った枝を揺らす冷たい北風に耐えて、来たるべき春を待ち続けるのである。そんな木々たちの囁きが聞こえるだろうか。

 今年も残り少なくなった。そろそろあちらこちらでベートーベンの「第九」が響き渡るだろう。"喜びの歌"の人間賛歌は、生きとし生けるものたちへの「命の賛歌」でもある。"終わりの始まり"を奏でる雄大な「歌」を聴こう。朝な夕なに見つめてきた目の前の森から、間もなく色彩が消える季節の到来である。

 人は何を為して、自分は何を為し得たであろうかと、物言わぬ黄金色の錦模様を眺めながら思索する師走の一日である。