獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

大相撲とスポーツ

 大相撲初場所が幕尻力士「徳勝龍」の初優勝で終了した。初の対戦として組まれた大関貴景勝」との千秋楽では、終始大関を圧倒する取り口を見せ観戦者を納得させた。モンゴル勢の横綱二人が序盤で負けて、"お決まり"の休場となったので何やら風通しの良い東京場所になった。国技と言いながら最高位をモンゴル勢に独占されて、何ら恥じることがない日本相撲協会の"だらしなさ"ばかり目立つ近年の大相撲だけに、先場所に続いて久しぶりに"里帰り"の気分を味わった。

 千秋楽結びの土俵上で勝った瞬間溢れ出した「徳勝龍」の男泣きは、耐え忍ぶ日本人の心根が素直に心に響いて観客を"貰い泣き"させた。勝つことの重さを同じ日本人同士で共有できた副作用を伴って、余計に感動的だった。見慣れている横綱白鵬」の、勝つことが当然と言わんばかりの太々しさとは全く違う新鮮な印象を残した。国技の大相撲はどうあるべきか、改めて多くの日本人を考えさせる一場面でもあったように思う。

 効率と結果が重視される現代社会は、経済学と経営学だけが突出して社会全体を支配している。近代資本主義のその行く末が見え始めていても、相も変わらず猪突猛進する「市場経済」を金科玉条の如く崇拝して止まない風潮は衰えを知らない。その傾向は経済社会のみならずスポーツなどの異分野にまで顕著だ。スポーツは本来人間が極限に挑戦して、その努力を称えるものであった筈が、いつの間にか結果だけが偏重される"得体の知れない化け物"になった。

 資本主義の宿命とも言うべき「利益尊重」によってスポーツが持つ崇高な理念と行動が忘れ去られて、「物珍しさ」や「新鮮」である結果だけを崇拝する商業的産物になった。マスコミが扇動する安直なヒロイズムに乗せられて、どれだけ多くのスポーツ精神が野山や海へ捨て去られたことか枚挙の暇が無い。国技として長い歴史と伝統を持つ大相撲さえ、「勝つ力士」「勝てる力士」を量産する宿命を帯びて、"形振り構わず"モンゴル詣を繰り返し、その揚げ句の果てが黒人とのハーフ力士急増になっている。

 グローバル時代とかの、とってつけたような屁理屈に便乗して"やりたい放題"との観さえ見え隠れする。勝負事に勝利はつきものだが、単に勝つことだけに価値があるわけではない。かつてのオリンピックの柔道試合で、怪我して傷めた片足を引きずりながら試合に臨んだ山下泰裕選手の足を決して攻めなかった対戦相手が居た。結果は敗退したがそのフェアープレイは世界の絶賛を浴びた。感動が感動を呼んだのである。

 勝敗がすべてであるが如きプレイが最近のスポーツでは眼につくが、人間がプレイとしてスポーツを楽しむのではなく、AIロボットや道具などの機械が結果を競っている観が強い。それはそれで無意味であるとは思わないが、どこか何かが違っているように思えてならない。血の通った人間同士の連帯が忘れられて、異質文明に陶酔しているのではないかとさえ思えなくはない。それを現代の豊かさだと認識しているならば、それはどこまで頑張ってもゴールがないレースを走っているようなものだ。

 小難しい理屈を振り廻す"屁理屈"が知性だと勘違いされて、機械や道具が覇を争う競技がスポーツだと誤解されてはいないだろうか。国技だとの謳い文句はどこへやら、モンゴル国相撲協会に改名した方が余程ピッタリする相撲協会殿、ここは一つ思案のしどころだと思うが如何だろうか。「名は体を表す」との格言をよもやお忘れではあるまい。今年は東京オリンピックが開催される年でもあり、よくよく頭を冷やすには良い機会だと進言する。