獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

市場経済の「徳」

 現代は「売ってなんぼ」の時代である。ただ単に"売る"だけではなく、どれだけ「利益」を確保するかが問われる世の中だ。オールドという表現がつく世代の方々ならご存じと思うが、"悪ガキ"だった少年時代には「金儲け」は"卑しい行為"であると教えられた。他人のものを盗む行為と同一線上の忌み嫌われる行いであるとの認識が一般的であった。

 今更の如くそんな時代認識を持ち出すと、「死に損ないの懐古趣味」と嘲笑されるのがオチであろうことは十分承知している。高齢者はそれだから始末が悪いと言われるのを承知で敢えて書いている。それは現代社会の「徳」を認識するのに欠かせない重要な要件と思うからである。「徳」は申すまでもなく社会道徳の基本である。

 社会生活ばかりか私たち個人個人の生活に深く関わる。けれどもそう認識するのは今や極小派で、むしろ異端者の部類かも知れない。それほどに「徳」はセピア色になって色褪せた印象が強い。何故なら「徳」の本質は他人の利益や利便性であるからだ。自己犠牲の上に他人のために努力する"公共"という概念が欠かせない。

 効率よく「売ってなんぼ」の利益が評価される市場経済とは逆向きである。銭カネが唯一の価値を有する資本主義社会で、利益にならぬばかりか労力と金銭の持ち出しにつながる 「徳」は無用の長物と化して久しい。滅多に耳にする機会が減ったが、それでも大きな自然災害などに見舞われた折は無償の行為としてボランティアが活躍する。

 黙々と、ただ黙々と、見知らぬ他人のために奉仕するボランティアの人々に、市場経済の利益は伴わない。それでもなお自らの体を汚して汗を流す。社会道徳の基本だと書いたが、数多い災害現場に企業や団体が自ら赴いた形跡はない。史上空前の利益の更新を続ける企業が数多くあっても、不思議なことに「公共の奉仕」にはそっぽを向いて恥じない。

 資本主義社会にあって市場経済とは何かは問うまい。しかし、如何なる形態の集団であろうと基本は個人である。個々の人間が各種の利益で結びつき集団を為している筈である。なれど集団が巨大化し、利益が巨額になれば、尚更「公共性」から遠のくのは何故か。得た利益は社会に還元すると言いながら、今だかって実際に社会に利益を還元した企業にはお目に掛からない。

 弁明や正当化するための理屈は発達しても、個人の崇高な奉仕精神を超える企業は存在しない。「内部留保」と称して企業内部に利益を貯め込むのが大流行だ。創業社長、オーナー社長の減少が成せる結果と拝見するが、松下幸之助本田宗一郎井深大盛田昭夫土光敏夫の時代は、今や雲の彼方に霞んで見えるだけである。史上空前の巨大利益を得ても、その利益は単なる"金庫の藻屑"である。

 「人徳」という言葉が死語化し、「徳」とは何ぞやが怪しくなっている。本来は人間の根源に関わる「徳」が、パソコン上の銭勘定に吹き飛ばされてどこかへ消えてしまった。銭カネを得ることが人間の存在をも危うくし兼ねない時代に、最早 「徳」を云々するよりも「売ってなんぼ」の打算に思いを致さねばならない。

 人間長生きして善いこともあれば悪いこともある。高度経済成長だと浮かれている間によもや銭カネがすべての世の中になるとは想像もしなかった。かつて日本人の特質と讃えられた美徳は、今や時代遅れの廃棄物になろうとしている。いや、最早そうなっているのかも知れないと、「死に損ないの高齢者」は背筋を寒くしている。