獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

高山厳「池上線」セピアの思い出

 最近の歌は聴くべきものがないので、徒然に古い歌を聴いている。長いこと愛用してきたipodが、暫く放置していた間に古くなった充電池が底をついた。ついにダウンかと観念して諦めたが、"ダメ元"だと思ってパソコンにつないだら奇跡的に復活した。パソコンは更に古いので昨年ハードデスクが故障して使用不能になり、新品ハードデスクに交換したため保存していたデータが全て消滅した。

 当然ituneのライブラリーも消えてしまったので、ダウンしたipodを復活させるのは無理だと思い込んでいた。再度ituneをインストールして空のライブラリーへipodを接続したら自動的に復活プログラムが稼働して、消滅したと思っていた収録曲がすべて甦った。自分にとっては近来にないビックニュースで、すでにCD現品を処分してしまった懐かしい50枚余が再び聴けるようになった。

 収録曲の大半はクラシックだが、中には愛聴したPopsも10枚前後入っていた。その中の1枚に高山厳さんの「心凍らせて」というアルバムもあった。自分が買った記憶がないので、多分家内の姉の病院長夫人からプレゼントされた中の1枚だろうと思う。他にも現院長である姉の長男の放射線科医である嫁さんが、自分が出かけたコンサートの土産に時々CDを買ってプレゼントしてくれた。

 高山厳さんは"ばんばひろふみ"とのデュエット時代から知っていたので、古き良き時代郷愁もあって聴き入った。当時"関西フォーク"と呼ばれてメジャーになったグループが数多く出たが、高山厳さんは主役になることなく脇役的存在のアーチストだった。そのアルバムの中の1曲に懐かしい「池上線」があって、久々に耳にした時は涙した。環七の陸橋上を夕陽を浴びて走り去る古い電車がしきりと脳裏に浮かび、池上本門寺脇の狭い石段の下を走る光景も思い出した。

 「池上線」の歌に描かれる世界は沿線の街で出会った若い男女が、やがて別れの日を迎えて去った男を追慕する女性の目で歌われるが、終電間近の駅前に1軒だけポツリと明かりが灯るフルーツショップが登場する。踏切や商店街の風情、金網のフェンス越しに延びる線路沿いの道、その途中の電柱の裸電球の薄明かりなど、何故か胸を締め付けるように目に浮かぶのである。

 縁あって昔大森駅近くの職場へ杉並区から車通勤した。仕事で大田区内の殆どの街々を歩いた。特に池上本門寺界隈は出向く機会が多くあって、古い木造住宅が立ち並ぶ坂道の風情が好きだった。何故か見知らぬ通行人一人一人に、古くからの知り合いのような親しみを感じた記憶が鮮明だ。実際に住んだことがないのに不思議な郷愁がある。戦前の池上本門寺界隈は向田邦子さんの小説やエッセイでお馴染みだが、戦災で焼け残った街並みはどこか懐かしさを感じさせる。

 過ぎ去った思い出は必ずしも美しいばかりではないが、その時の手触りや臭いなどは忘れ難く残るものである。何気ない日常の何気ない悲喜こもごもが、年月のフィルターで濾過されて幾つもの小さな感傷となって残る。「池上線」の池上駅は変貌著しいが、街並みは変わっても思い出の中の池上駅は今も昔の儘である。通り過ぎる人並みも当時とは大きく様変わりしているが、歌の「池上線」に登場する男女は若いままである。

 儚い慕情は青春の宿命だ。実際には凸凹だらけだった人生も、長い年月を経ると角が取れて平坦化する。曲がりくねった青春期は角だらけだが、その角ゆえに傷つき易い。傷つくことで深まる感傷は青春の勲章だ。一度耳にすると長く記憶に残る「池上線」は、決して名曲の部類ではないと思うが、私の場合は人生の節目と重なって忘れ難い。歌や音は留まることなく消えていく。人それぞれの心に積み重なった想いを、今小さなipodの中で私に呼びかけている。