獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

普通とグルメの違い

 人間誰でも美味しいものを食べたいと願っている。異色派には俗に言う「ゲテモノ」の類いを好んで食べる人達も居るようだが、それらの人達を普通だとは言わないし、普通だと思う人も少ないだろう。普通とはごく当たり前の常識的範囲内の食事を美味しいと感じる人達で、世間の圧倒的多数派である筈だ。

 グローバル時代が言われ出して久しいが、街を歩いていて外国人に出合わない日はないし、東京の街々には世界各国の専門料理店が居並んでいる。気軽に海外へ出かけられる時代になって、現地でその国の味を満喫した人達も多かろう。だがしかし、日本人が日本国内で生活していて、毎日外国料理を食べている人はごく一部だろう。

 日本人が日本で暮らしていて、日本食を食べるのが普通で当たり前だと思うのは今や高齢者の妄想になろうとしている。それほどに日本人の暮らしそのものが大きく変化した。ネットの情報でもテレビや雑誌などの情報でも、今や食事に関する情報が溢れている。一昔前までは、人間が生きる上で食事を摂るのは当たり前で、その当たり前のことに関心を示す人はごく少数であった。

 グルメという言葉まで登場して、普通の生活では出合う機会が殆どない高級食材や、その食材を使った料理が一躍時代のスター的存在になった。注目されることなどなかった料理人達が、時代の寵児として持て囃されている"お笑い芸人"と肩を並べて、時にはその人気を凌ぐほどのスターに熨し上がっている。

 時勢に棹さすつもりは毛頭ないが、野次馬的に見れば何やら奇妙な印象が拭えない。世間で一番料理の身近に居るのは各家庭の主婦だろう。上手いか下手かは別として、朝、昼、晩とキッチンに立ち色々な食材と格闘する。別段料理は女性の専売特許と決まっているわけではないのに、何故か殆どの家庭では女性達が台所にいる。

 伝統的か創作的かを問わず、日本人が食する料理は「日本料理」「和食」と呼ばれて、諸外国の料理と明瞭に分けられてきた。今やその「和食」が"世界文化遺産"に登録されて、世界中で静かなブームの主人公にまでなった。急激に変化した「日本料理」「和食」という言葉が一人歩きして、世間のあちらこちらで妙な"勘違い"を生んでいるようである。

 グルメとは、一流と言われる有名料理人(時にはシェフとも言う)が腕を振るう有名店で、超高価な食事をすることだと一般的に認識されているようだ。誰がそう決めたのか知らないが、多分無責任で軽薄なテレビの所産であるのは間違いないようだ。世間の人達も納得してそう思われているのなら敢えて異論を挟む余地もないが、何かしら違和感があるのは私だけであろうか。

 昨今の傾向として「高くて旨い店」が珍重されている。それらの有名店へ足繁く通う面々をグルメと呼ぶらしい。そのこと自体に異論はないが、少し首を傾げて考えれば「高くて旨い」は当たり前のことで、それを殊更珍重することが何ゆえグルメなのか大きな疑問に突き当たる。当たり前のことを特別であるが如く認識するのは、言ったら悪いが「見当違い」そのものだ。

 美食家や好食家をグルメと呼ぶならば、小さな町外れのラーメン屋や、古ぼけて色褪せた暖簾を掲げ続ける名代の大衆食堂にどうして目を向けないのか。市井の人々に愛されて細々と営業を続ける店の言うに言われぬ昔ながらの味や、お袋の味を彷彿とさせる立ち食い蕎麦屋の丼を無視したグルメなど、語るに落ちた「上げ底もの」だと私は認識している。

 細長い日本列島の各地に名も知れぬ旨い店は沢山ある。新幹線やタクシーを乗り付けて行く店ばかりでなく、額に汗して入った店や、寒さに震えながら立ち寄った店のほっとする忘れ難い味こそ人生だろう。無闇に誰かの利益を図る"グルメ紀行"など願い下げだ。物事の本質が忘れられて、虚飾に満ちたインチキ情報ばかりが氾濫するこの時代が、何ゆえ「グルメの時代」なのかを問いたい。