獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

銀座今昔

 先般NHKBS放送で流している「世界ぶらぶら街歩き」とかいう番組を見た。これまで何度か目にしている番組だが、タイトル通り世界各国の"街歩き"で、馴染みが薄い街が多くて何となく"見流し"ていた。それが何故かは分からぬが突然「銀座」になった。今では遠くなった70年代初頭に、仕事場がある銀座8丁目へ通った"元住人"としては、当然気になって最後まで見た。

 まず気になったのが番組の案内人で、銀座生まれの銀座育ちを自称する歌舞伎役者の尾上松也が軽妙な語り口で相務めていた。見ていて突然驚いたのは、老舗テーラーとして銀座の名物的存在の「壱番館」を知らぬ事だった。当然のこととして昔ここに「壱番館画廊」が併設されて、著名な画家や文人達の個展が開催されて賑わったことなどもご存じないらしい。

 ついでなので尚言わして貰うなら、この「壱番館」横の有名な「みゆき通り」の由来などもご存じないだろう。"銀座生まれの銀座育ち"も地に落ちたもので、今更ながら我が身の老骨振りを再確認させられた。「みゆき通り」は60年代から70年代にアメリカ西海岸のキャンバス・ファッションを真似た「アイビールック」の若者達が集まって有名になった。その元祖ファッションデザイナー石津謙介氏が一世を風靡した時代があったのだ。

 何ゆえ「みゆき通り」となったかは、古く明治天皇最後の行幸地であることに因んで、"御行幸"を短縮して親しみやすい平仮名表記が最後に残って「みゆき通り」となった。その選考委員には当時の壱番館社長や資生堂の福原社長、皇室御用達の中国料理の名店「山水楼」の宮田社長、帝国ホテルの社長の他に当時の東宝映画の社長などが集められ、再開発で道路が拡幅されたのを記念して命名された。

 その選考委員を代表して実際の命名者となったのが、閉店して今はない中国料理の名店「山水楼」の宮田社長である。氏は"遊記山人"との雅号をもって、昭和天皇や作家川端康成との親交が有名だが、我が国の文壇・画壇で知らぬ人がない"文人書家"である。清朝末期の中国書壇で「書の神様」と讃えられる呉昌碩や齊白石など、多くの文人書家と直接親交があった唯一の日本人であるばかりでなく、広田弘毅吉田茂元総理と机を並べた外務省の同僚外交官でもあった。

 メインストリートの混雑を避けて、東宝本社(現在のみゆき座と宝塚劇場)と帝国ホテルの間を通り銀座へ出たのだ。今やその由来を知る人が他界されてしまって、銀座の一部老舗の記録に残るのみとなったが、昭和20年1月の銀座大空襲などと共に銀座を語る上で忘れてはいけない歴史である。6丁目の松坂屋デパートが消え、唯一名物として長く親しまれた8丁目の天ぷらの老舗「天国」の、風情ある木造店舗も現代風に建て変わった。

 銀座通りの柳と4丁目角の服部時計塔は変わらずあるが、表通りは有名な欧米のブランド店に占拠された趣が顕著だ。現在の銀座に往時の風情を求めるのは困難になった。銀座を知らぬ"銀座人"が増え、これから先の銀座はどう変わっていくだろうか。栄枯盛衰は世の常とは申せ、外資系ばかりが眼につく現在の銀座へ、"元住人"の足は向かない。

 世の移り変わりは東京の繁華街をも大きく変貌させた。数寄屋橋交差点に映画「君の名は」の面影はなく、長く親しまれた「数寄屋橋阪急」が消え、"ロカビリー旋風"で有名になった「日劇」や朝日新聞社も消えた。ファッションの一時代を築いた「プランタン銀座」も閉店した。裏通りにあった数々の食べ物屋も小綺麗なビルに生まれ変わり、通りに漂っていた"旨そうな臭い"もいつの間にか消えた。

 "元銀座人"だった同世代の友もそれぞれに銀座を後にして久しい。名残を留めるものは限りなく少なくなった。昔ながらの店が残っている、ただそれだけで胸が熱くなる。過ぎ去った時間の長さを思い知らされ、立ち止まり振り返っても、過ぎた時間は果てしなく遠い。テレビ画面に映し出される銀座を見ても、"銀座生まれの銀座育ち"という案内人の説明を聞いても、そこにあるのは私が知る銀座ではなかった。

 老いも若きも瞬時にスマホで情報が手に入る時代だ。だけど、その情報に「昨日・今日・明日」はあるのだろうか。瞬時に消えていく「今」だけを見て、そこに生きている人間やその生き様などを知ることが出来ようか。人間が生きて、そして死んでいった営みこそ「生きた証し」だと思うのは、余計なお世話の老婆心なのであろうか。