獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

当たり前と当然

 世の中には納得できることばかりではない、むしろどうしても合点がいかぬものや納得できないものが数多くある。それでも世の中とは善くしたもので、殆どの人がその合点がいかぬものや納得できないことを、訳知り顔で受け入れ生きている。本来はとても不思議なことなのに、それらを不思議と思わずに"したり顔"して平然としている。

 その最たるものが日本人と日本語だろう。世界一難しいと多くの外国人を嘆かせる日本語だが、日本国内で日本人として生まれるとそれが極めて当たり前になって、難しいと言われるその意味さえ考えないし知らないまま生きている。周りのみんながそうしているからという理由で、その是非を考えることなく無条件に同化している。

 全てが万事とまでは言わないが、少し注意して身の回りを見渡せばその種の不思議な現象がゴロゴロある。世界一難しいと言われる日本語は、裏を返せばそれだけ幅と奥行きを備えた豊かな表現手段ということが出来るだろう。折角その豊かな日本語を身につけながら、一体どれだけの日本人が日本語に目覚めているだろうか。

 迷走に次ぐ迷走を繰り返してきた我が国の文教行政は、掛け替えのない財産であるその日本語を、学校教育の場で簡略化する恥知らずな無能振りを遺憾なく発揮してきた。その挙げ句の果てが現在の日本語に無知な日本人の大量増加である。簡略化されて定型化した日本語は、本来の味わいである"わさび"を抜いた「さび抜き寿司」である。

 随分昔になったが、亡くなった名優の芦田伸介が「クリープを入れないコーヒーなんて!」とTVCMで一世を風靡した。それに続くのが数多くの名優が次々登場した「違いが分かる男のネスカフェゴールドブレンド」であったろう。それらのCMは単なるCMの領域を超えて、時代を映して「当たり前と当然」を世に問いかけた。

 誰もが何気なく見過ごしていた日常性の、何が当たり前で、何が当然なのかを改めて私達日本人に問いかけた。この言葉の切れ味を現代に見出すのは極めて困難だ。日本語の奥深さを、言葉の作り手も、それを受け止める私達の側にも、打てば響く阿吽の呼吸がまだ息づいていた。ただ無為に目新しさだけを求める「豊かな貧しさの時代」とは、最早比べるべくもないほどに違いは歴然である。

 日本語が貧しくなればそのベースである私達日本人が貧しくなる。例えどんなに豊かな生活を手にしたとしても、それは単なる「見かけ倒し」でしかない。一見似ているようであっても、豊かさと喧噪は基本になる文化が違う。その違いにさえ気づかなくなったら、相当程度に進行して手に負えなくなった"がん細胞"同然である。

 ほんの少し考えれば私達の身の回りには、豊かな日本語がまだ消えずに息づいている。様々な言葉たちが出番を待ち続けているのである。安直なテレビ文化やSNSに飼い慣らされたのではない、本来の"生の日本人らしさ"が生き続けている。コーヒーのゴールドブレンドは今や文化だが、CMで問いかけた「違いが分かる男」は最早青息吐息のようである。

 何が当たり前で、何が当然なのかを、熱いコーヒーを飲みながら考えてみるのも、あながち無意味ではないと思うが如何であろうか。