獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

人生の味

 味覚は人間が生きていく上で欠かせない要素の一つだ。人間に限らずあらゆる種類の生き物は無我夢中でひたすら喰う。生きるために喰うのか、喰うために生きているのかが分からない位によく喰う。何も考えずに喰うのか、何かを考えながら喰うのかは不明だが、取り敢えず喰っていれば命が途絶えることはない。

 人間様とて同じで「食欲」に支配されて生きているのだが、それを率直に認められる人は少ないだろう。本当は喰ってさえ居れば幸せなのに、何のかんのと理屈をつけては知性派教養人になりたがる。食欲を満たすのに知性も教養もないと思うが、何かと理屈をつけては"いい格好"をしたがる御仁が多い。

 その手の「格好派教養人」の常套手段は、テレビに出てくるような有名高級店の料理と味を一片の疑いもなく絶賛することである。善くもまぁここまで言えるものだと感心しながら拝聴することになるが、お決まりのオチは値段がべらぼうに高いことだ。自前でカネを払って喰っているとは到底思えないが、社交辞令もここまで来れば"嫌味"でしかない。

 現代は何事も「カネ次第」で価値が決まるようで、途轍もなく高価で一般人の口には入りそうもない料理が美味だと珍重されている。ケチをつけるとすれば、それほど高価な料理がお好きなら1万円札を煮たり焼いたりして喰えば?と言いたくなる。この手の御仁にそもそもの味がお判りだとは思えないが、その社交辞令を鵜呑みにして自慢げに語る「自称グルメ」が大盛況だ。

 公共放送NHKまでもが「他人が旨いと言えば実際に旨いと感じる」とやらの、奇妙で怪しげな研究成果を臆面もなく放送するくらいだから、何が正確なのかその基準が失われている。目新しさだけを取り柄とするマスコミに扇動されて、大して旨くもないものが美味だと持て囃されている。オールドファンならご存じだろうが、昔流行った漫才の花菱アチャコの「無茶苦茶でござりまする」そのものの様相だ。

 自分が飲み食いして旨いものが、他人にも同じく旨いかどうかは誰も決められない。そんなことはとうの昔に承知の筈だが、当節は味がお判りにならないコロナ・ウイルス感染者の如き人達が滅法増えているらしい。見知らぬ誰かの利益のために奉仕させられて、それで喜色満面の「アホグルメ」が増殖している。誰かが並べば疑いなく並ぶ「宇宙人グルメ」も同様だ。

 味覚は本来究極の個人体験だ。一人一人違っていて良いのに、押し並べて同じものを好むよう誰かに仕向けられている。すべては利益のために、「旨い」という感覚さえもが狡猾に利用されている。日々の家庭の食卓はその家族にとって「最大の家族の要因」だ。他人からすればまずいと評されるものも、その家族にとってみれば「掛け替えのない味」だ。

 幸せの基準が一人一人違うように、旨いかまずいかもそれぞれに違う。生活の中で嬉しいのも悲しいのも、それぞれのシーンにそれぞれの味が付き添っている。たった一つの普通の「あんパン」が人生を彩ることもあるし、涙を流しながらの一杯のラーメンは、その人にとって生涯忘れられない味になるだろう。

 決して有名ではなく、高価な値段でもない日常の味こそ人生だ。甘いか辛いかはその人次第だが、喜怒哀楽それぞれの場面で味は千変万化する。それぞれのシーンが忘れ難いように、その時の味も忘れられないものだ。誰かが誰かからカネを貰って言いふらす情報とは異なり、利益を超えた人生の真実がそこにはある。

 自分の味覚を失うことは人生を失うことに直結する。自分を見失って他人の言動に惑わされても、心震える感動は得られない。食卓に並べられた一切れのたくあんに、その言うにいわれぬ妙味を知れば人生は一段と深まる。安いからとか、高いからと、本来の味とは無関係な要因に幻惑されて、自分自身の味を見失うのは人生を見失うことだ。

 グルメの本道はさりげなく究極の味を示す。和歌山県高野山金剛峯寺の精進料理をご存じだろうか。全員が男ばかりの修行僧が作る元祖の精進料理は、弘法大師空海が伝えた古の味を今に伝える。山内で収穫された野菜のみを使い、肉や魚類に見まごう究極の芸術的料理を生む。1度口にしたら生涯記憶されるだろう。

 福井県永平寺に伝わる禅宗精進料理も、長い歴史を刻んで伝統を今に伝えている。究極まで無駄を省き、人間の食生活から未踏の精神世界へと導く。厳しい自然を拒むことなく受け入れ、ひたすらに耐えて人格形成を目指す研ぎ澄まされた味だ。これらの究極のグルメは商業主義に同化しない。宣伝されることはなく、人目を避けるが如くに存在し続ける。

 本物のグルメを知れば、マスコミが持て囃すグルメブームの"嘘くささ"がお判りになるだろう。京都祇園お茶屋が何ゆえ「一見さんお断り」なのかも理解できる筈だ。"嘘くさい"情報の中身は限りなく怪しいことに気づけば、その情報に踊らされて「本物」とは何かを見失っている自分に気づくだろう。

 繰り返すが「味はその人の人生そのものだ」。