獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

天津甘栗と李鴻章

 私が住む東京日野市の高幡不動参道商店街に「天津甘栗」を売る専門店がある。前を通る度にその甘い香りに誘われてつい買ってしまうのだが、ここ暫くご無沙汰していた。久しぶりに買った甘栗はやはりその名の通り甘かった。随分昔になってしまったが、顔を合わせる度に「甘栗食べる?」と問いかけるおばさんがいた。

 私が出会った頃には既に70歳を過ぎていたと思われるが、背が低く小太りではあったが中々の美的老婦人だった。金縁の眼鏡の奥に光る眼は鋭く、よく通る大きな声を発する人だった。一見して只者ではないと予感させる貴婦人然とした佇まいから、並々ならぬヒストリーを背負った人物であるらしいと思われた。

 その方が中国近代史の英雄李鴻章の娘さんであることが分かったのは、出会ってから大分経った後だった。李鴻章が我が国に滞在中に見初めた新橋芸者との間に生まれた、在日中国人であることも直接・間接に洩れ窺った。新橋芸者だった母親が病弱で早くに他界し、天涯孤独の身の上であることも知った。

 り‐こうしょう 【李鴻章】清末の政治家。字は少荃、号は儀叟。諡おくりなは文忠。安徽合肥の人。曽国藩に従って、淮軍わいぐんを率い太平天国の乱を平定。以来、洋務運動の中心者として軍隊の近代化、近代工業の育成、招商局の設立などにつとめた。直隷総督・北洋大臣・内閣大学士などを歴任。日清戦争における下関条約の調印や、義和団事件の収拾にもあたった。(1823~1901)[広辞苑 第七版]

 母娘の身の上を案じた父親の李鴻章が、先々生活に困らぬようにと数々の遺産を与えたようで、かなり裕福な資産家であることも周囲の話から知ることになった。その李鴻章の遺産の一つが「天津甘栗」で、中国国内と我が国で販売される権利を独占的に有していた。何もせずとも甘栗が販売される都度、膨大なロイヤリティがこのおばさんの手に入る仕組みが作られていた。

 私がこの人と出会ったのは、この人が「日本のパパ」と呼ぶ有名な書人を通してのことだった。その経緯はそのまま秘められた日中の歴史なので、一夜・二夜では語り尽くせないほどの分厚い中身がある。中国清朝末期を彩った数々の歴史上の人物が登場するので、その詳細を説明するのは容易ではない。

 昭和天皇が親友と呼んだことで知られるこの書人は、宮内庁の依頼を辞退して昭和天皇の書道ご進講を無二の親友に託された。戦前に我が国の軍部が中国上海に設立した超エリート校「東亜同文書院」の同級生で、卒業後は同校の教授を経て外交官になり、中国公使を務めた清水董三である。"清水サロン"と呼ばれて、上海の日本公館は清朝末期の代表的な文人たちが集う社交場と化した。

 ここから日中の近現代史に関わる数多くのドラマやエピソードが羽ばたくのだが、李鴻章もその一人である。満州国初代国務総理となった鄭孝胥を始め、清朝最後の皇帝溥儀にまで連なる面々の中には、書聖呉昌碩をはじめとする数多の文人がいた。我が国に亡命した著名文人や政治家は殆どがこのルートを頼りに命を長らえた。

 私が縁あって秘書役を務めた書人宮田翁と前記清水翁との信頼と友情は、生涯変わらず続いて戦前・戦後の歴史の舞台の一角を担った。外務省で机を並べた吉田茂が戦後長く総理大臣を務めることになって、外務省内にはこのお二人を慕う書の門下生たちが「東翆会」を設立した。発表会は毎年日本橋三越本店で開催される恒例行事になり、皇族に並んで我が国を代表する文壇・画壇のお歴々が参加した。

 冒頭の甘栗おばさん李さんもこの「東翆会」の内弟子で、有名企業の社長夫人たちに混じって参加していた。私を「お兄ちゃん」と呼んで親しくご馳走になったりしたが、当時関係者の中で最年少だった私には身内のように接してくれた。頻繁に顔を合わせる機会に恵まれたので、その都度必ず「甘栗食べる?」と訊かれた。肌身離さず持ち歩く大きなバックの中にはいつも甘栗が入っていて、二人でよく食べた。

 李さんのバックの中には数冊の銀行通帳が入っていて、時々私に見せてくれたがその預金残高は想像を絶する金額だった。「お金に困ったら私を襲いなさい」と冗談交じりに言って笑っていたが、銀座に数軒のビルを建てられる位の資産を有していた。「お兄ちゃんだっら私声を出さずに笑顔で殺されてあげる」と嬉しそうに笑ったのが印象的だった。

 甘い香りがする熱々の甘栗を噛むと、今もなお李さんの顔が目の前に現れる気がする。苦節を経たであろう自らの人生に誇りを持ち、凜とした佇まいを失うことなく生きた老婦人の臭いを感じるのだ。李鴻章の名を知る日本人が殆ど居なくなった現在、若し李さんが元気で生き長らえていたら、束縛のない真の自由を手にしたであろうと想像する。

 甘栗は往時と変わらずほんのり甘い。立ち上る香ばしい臭いの向こうに、遠い存在になった老貴婦人を思い出しながら味わうのである。戦前・戦後の歴史が遙かになったのを、改めて噛みしめながら胸が熱くなる天津甘栗である。