獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

オールド・ジャズシーン

 難聴の高齢者は哀れと幸いが同居している。重傷の左耳鼓膜に装着していた小さなチューブが外れ、閉塞感が強まってほぼ聞こえなくなった。何度も繰り返しているので鼓膜が張りを失ったことが原因らしい。暫く間を置いて様子を見た上で再度チューブ装着の小手術を受けた。再三の切開で緩んだ鼓膜の穴が完全に塞がっていたので、チューブを装着後の聞こえ方が少し変わった。

 「溺れる者は藁をも掴む」と言われるが、齢80の高齢者は藁どころか髪の毛1本にでもすがりたいので、例え無駄と分かっていても最後の抵抗を試みたがる習性がある。数ミリにも満たない小さなナイロンチューブに夢を託して術後に期待したが、悲願が神仏に通じたかトンネルが開通した如くに音の通りが改善した。

 それまらばと悪のりして、これが最後かも知れないと思い定めて音楽を聴きたい欲が出た。ほぼ無駄であることは予測しているが、それでも最後の機会に期待を託してデスクトップパソコンにスピーカーを設置した。言わずと知れたアップルのiチューンやアマゾンのミュージックライブラリーを利用するためだ。

 先年肺癌に加えて膵臓癌が確認されて手術を受けることになった際に、多分生きて自宅へ戻ることはないだろうと決心して長年愛用してきたLPやCD類とオーディオ機器を処分した。以来術後の体調が安定しなかったこともあって、音楽と向き合う機会が失われて久しい。難聴が進行するにつれて絶望視せざるを得なくなっていた。

 そんな状況下へ降って湧いたように聴力の改善がもたらされた。テレビも字幕と骨伝導ヘッドフォンでやっと対応している身ゆえ音楽への挑戦は無謀を超えた"暴挙"であるが、何事も挑戦せずには気が済まない性格が災いして実際にやってみることにした。耳鼻科の専門医にも無理だと言われながらの挑戦である。

 音楽とオーディオには長年付き合ってきた知識と経験の蓄積があり、迷わず世界最大のスピーカー・メーカー米JBLの小型製品を物色した。データやスペック上では優れる我国オーディオ製品も、実際に聴き比べてみると音楽性に欠けるものが少なくない。音楽との長い歴史が異なるので是非を論じるには無理があるが、本質が抜け落ちた好み論には興味がない。

 幸いテレビの難聴対策として購入してあったJBLのデジタルアンプ内蔵製品があったので、試みにこれをパソコンへ移した。目論見通り小さいながらもアルミコーンの2wayJBLは驚くばかりの見事な音で鳴った。難聴者ゆえかなりの音量にボリュームアップせざるを得ないが、交響曲からJazzのリアルな楽器音まで音が崩れない。

 50年代から数々の名器を誕生させてきたJBLだけあって、その腰が座った迫力サウンドに改めて脱帽の趣になった。オーディオの世界ではよく「音の抜け」が話題になるが、我国製品の多くに見られる「小綺麗に整った音」は音楽性が抜け落ちている感が否めない。"清濁併せ呑む"音の強弱にこそ「音の魂」があると信じて止まない。

 音楽はそれぞれに外見が異なるが、一貫してその奥に流れる本質は変わりない。スマホで音楽を聴く世代には無縁だと思うが、音楽の再生には大きな音と小さな音がある。大きな音の再生には大きなスピーカーが必要だとされているが、実はその常識がそもそも怪しい。小型高性能なスピーカーを大音量で鳴らした場合と、大型高性能スピーカを小音量で鳴らして比較したことがお有りだろうか。

 怪しげな世間の常識や先入観に支配された感覚からは、本物の音は聴こえないしアーチストの魂を感じることが至難だ。まずもってご自身の感性の整備からスタートされることをお勧めする。話が少し脇道へ逸れてしまったが、難聴高齢者の音楽への飽くなき挑戦はかくしてスタートした。メディアのCD類がないので無料や定額料金で利用できるアップルのやアマゾンのミュージックライブラリーを利用している。

 現在我が家は午前中からApple Musicプレイリストの長時間リストが響き渡っている。特に長くご無沙汰していたJazzを久々に耳にして、感慨ひとしおの日々を過ごしている。新旧Jazzの名盤が無差別に並ぶプレイリストをライブラリーに取り込んで、終日Jazzに浸っている。バド・パウエルの50,年代から殆どのLPを聴き漁ってきたが、青春の日々の生々しい記憶と共にやはり心躍るものがある。

 不思議なことに往年の50年代・60年代が全く古びていないのである。若々しいマイルス・ディビスやジョン・コルトレーンが目の前にいるのである。国内盤LPを敬遠して背伸びしながら高価だった輸入盤を手に入れた頃の、熱い想いがタイムロスなく蘇る。ブルーノ・ワルターのニューヨークフィルもしっかり現役だ。イースト・コースト、ウエスト・コーストのアメリカ盤と、ドイツやイギリス、フランス盤との音の響きが違うのも楽しかった。

 世界が激動する中でニュージャズやウッドストックがあり、ジミヘンドリックスがいてジャニス・ジョブリンがいた。キング牧師がいてベ平連があった。常にその時代の音楽があった。今日を生きるために、明日を生きるために、音楽はいつもその場にあった。音楽と共に生きて、死んでいった数多くの人たちがいた。音楽は生きている証明であり、生きることを後押しする必須アイテムでもあった。

 老い先短い難聴高齢者に音楽が蘇った。話し声は判別できなくても楽器音は分かる。小さなJBLの2wayスピーカーは限りない広い世界をその響きで伝えてくれている。その音に包まれながらこの原稿を書いている。Jazzと共に蘇るリアルな時代の手触りを思い浮かべている。ネットショッピンで現実世界に軸足を置きながら、いつの間にか遠くなっていた過ぎた日々に思いを馳せている。

 硬い大きなフランスパンを囓りながらJazzに親しんだ日を再現は出来ないが、熱いカップラーメンをすすりながら往年の音に胸を高鳴らせている。8時間の長時間リストはいつ終わるともなく鳴り続けて、老人に至福の時間を提供し続けている。オールド・ジャズもオールド・マンも未だ死なずだ。明日は青空が広がるだろう…。