獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

心眼の有無

人は得てして見えているのに気づかなかったり、聞こえているのに感じなかったりということが屡々ある。別段目や耳に異常はなくても、何故か不思議に見えなかったり聞こえなかったりする。人間誰しもにあるごくありふれた現象だ。ごくありふれている分だけ注目される頻度が低いが、人間生活ではこれが端緒で幸せになったり、不幸になったりする。

 所詮は感覚機能が鋭敏であるか否かの違いなのであるが、世の中には類い稀な能力を身につけている御仁が少なからず存在する。故人となられて久しいが、私の身近にも目は普通に見えているのに、敢えて目をつぶって文字を書く書家・書人が居られた。有名なノーベル賞作家川端康成先生が甚く感激されて、ご自身でも見習われた。

 人間の心には諸々の好ましい感情や、好ましくない感情が巣くっている。その成せる技で各種の悲喜劇が生じるのだが、書人として筆を執る際に少しでも上手く書きたいと願うのが普通の人情である。他人に認められたい、他人に評価されたいという感情が離れ難く付きまとう。ごく当たり前と思えるその人間感情から抜け出さない限り、本当に自分自身が納得できる文字は書けないというのである。

 あらゆる人間感情を超越した彼方にあるであろう「素」の自分に向かって、限りない葛藤の末に辿り着いた一つの結論が「目をつぶって文字を書く」所作であった。厳しい自己鍛錬と抑制とによってもたらされた余人の追随を許さぬ境地で、101年の生涯は日々その境地にいたる壮絶な戦いの毎日だった。"我が国書壇の孤峰"と讃えられたが、自ら詠まれた短歌「上手いとかまずいとか言う限り文字のうちには入らぬと知れ」「千本の筆を投げ捨て万枚の紙をつぶしてなお文字ならず」は、至高の境地を示している。

 遺された書作品は俗心を削ぎ落とした孤高の「素」がそこにあり、見る者の心を捉えて放さない"禅の極致"を示す。多くの禅宗寺院本山の現役貫首が心酔した理由がそこに示されている。多くの人々から「心眼」と賞賛されたが、在世中のご本人は笑って首を横に振られた。目をつぶることで"上手く書こう"という俗心が働く余地がなくなるだけだと、率直に謙遜された。

 終戦時の「銀座大空襲」で爆弾で飛ばされ以来耳が聞こえない。それでも対面する相手の話をほぼ理解する。必要に応じて重要点は私が補足説明したが、理解しているか否かはその表情を見ていれば分かった。誠に人間を超えた「超人」とも呼ぶべき御仁であった。童心そのものと言える純粋無垢な心の持ち主で、一切の虚飾や嘘がないのである。

 身近にいるだけで心が洗われ、気づくといつしか自分の中から虚飾が消えているのである。ご本人には何も聞こえず、目をつぶることで何も見えない筈である。それなのに笑顔を絶やさない豊かな表情はどこから生じるのであろうか。老いてなお鋭利に研ぎ澄まされた感性は何ゆえであろうか。

 人間の精神世界は無限に広く奥が深い。日々生きることを手抜きせず、自分で自分に嘘をつかず、自分を誤魔化さずに正直に生きれば、目に見えず耳に聞こえない深遠な世界が開かれる。目で見る世界や耳で聞く世界は必ずしも全てではない。無色透明な空気や水のような、そこにあるのに気づかない「無限」を感じる筈だ。

 その日、その時が訪れるか否かは、全て自分次第である。厳しく、かつ温かい人間生活の真実は幾つも存在はしない。それが理解されれば「心眼」の世界が一歩近づくのである。