獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

何気ない日常と認知症

 私たちは毎日を生きている過程で、「昨日が過ぎて今日が来た」と感じるか、或るいは「今日が過ぎて明日がやってくる」と感じるかで、現在の時間の認識が大きく変わるのをご存じだろうか。一見どちらでも良いようでいて、その実は全く異なるのである。敢えて言えば「後ろを向いて」生きているか、「前を向いて」生きているかの違いとも言える。

 どちらを向いて生きようがそれは個人の勝手で、他人がとやかく言う筋合いの話ではないのを承知の上で敢えて言えば、人生経験が長い高齢者ほど面倒だと敬遠してそのことを考えたり感じるのを意識していない。極論すればそれゆえに「認知症」の悲劇に出くわす頻度が高くなるのだが、それさえも気づいていない高齢者が多い。

 毎日の生活を意識して過ごしているか、何となくやり過ごしているかの違いとも言えるが、何もせずとも時間が自然にやってくると感じている人と、自分なりの計画や予定で時間を生み出す人とでは、同じように見えて全く違う。どちらも同じと思える人は既に「認知症」が始まっているので注意せねばならない。

 物事を認識するのは人間生活の根本であり基本である。それが失われることの恐怖は改めて言うまでもないが、人間が人間でなくなるのである。自分は関係ないと思ってやり過ごしている高齢者が圧倒的に多いが、それらの人たちの大半が遅かれ早かれ「認知症」になる。今のうちに"明日は我が身"との認識を持つことが肝要だ。

 冒頭で前向きと後向きの生き方の違いに触れたが、文章だと少し難しく感じることも実際にやってみれば極めて簡単であることに気づかれるだろう。大切なのは実際に何か行動を起こして、その変化を感じることだ。物事を感じたり、気づいたりすることで脳が活性化する。それが出来れば毎日の生活にメリハリがついて、過ぎていく時間とやって来る時間が意識できる。

 「過去」と「未来」を意識できれば、その間に「現在」があるのに気づかれるだろう。一見どうでも良いことのように見える些細なことも、意識して行うのと無意識に通り過ごすのとでは、自分自身が変化する様子が窺えるだろう。何気なく過ぎていく日常が、実は意識的に過ぎるのと無意識に過ぎるのとの、二種類あることがお分かりになるだろう。

 仏教の禅が説く「無我の境地」は屡々誤解されているが、"魂の浮遊"では決してない。「有の中の無」ともいうべき境地で、人間としての存在が前提にあり、空気のような無ではない。生まれたばかりの嬰児が持つ無垢の純粋が「有の中の無」である。人間性を備えた無意識と、人間性の中での意識なのである。

 人間としての存在と尊厳があって、生きようとの意欲を伴う行動が出来なければならない。そのための一歩が感じたり、気づくことだ。日常の中の些細な物事を意識して感じたり、気づくことである。それを怠れば早晩「認知症」の訪問を受けて自分が分からなくなり、人間であることから遠ざけられる。

 前向きと後向きの分かれ目は一見見過ごされやすい。スタートはまずその違いを感じて気づくことである。あなたがあなたらしく、人間らしく生きることを全う出来るか否かはそのことに気づくかどうかである。