獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

馬鹿につける薬

 最近は馬鹿という言葉を聞く機会が滅法減った。かつて言われていた精神薄弱という言葉が差別用語だと世の中から敬遠されて、最近は「知的障害」とかいう言葉になった。アジア唯一の先進国として手厚い人権擁護制度を持つに至った我が国は、殺人者やそれに類する犯罪者にも超絶な保護法制を擁している。

 死刑廃止の論争に荷担するつもりは毛頭ないが、理屈というのはつけようと思えば目糞・鼻糞の類いにもそれなりの存在感と意義を与える。どう弁明しても犯した犯罪が消えるわけではなく、被害者の怒りや悲嘆は殆ど顧みられない。理由はともあれ生きている人間には人権があり、殺されたり大怪我で死んだ人間には人権が保障されない。

 司法の場では条文解釈が全てにおいて優先される。本来は人間が生きるために存在する筈の法律が、言葉は悪いが法律のための法律になっている。それに阿呆な法学者たちが大真面目な顔をして、しがみついている観を免れ得ない。敢えて言わして貰うなら誠に滑稽極まりない。面白おかしいのに何故か笑えない珍現象になっている。

 それゆえかどうかは定かでないが、現在の我が国はあらゆる場にお笑い芸人やその種のタレントが登場する。その発言や動向がまことしやかに報道され、今や政治家を遙かに超える影響力を発揮している。視聴料を国民から強制徴収している国営放送(?)が率先して、その旗振り役を担っている図はどう贔屓目に見てもまともだとは思えない。

 人間生きてさえいれば等しく人権が保障されるようで、動けずに病院や施設のベットの上で機械の助けで呼吸しているだけの人や、家庭内で面倒を見れずに養護施設へ預けられている障害者は、社会的弱者として手厚く保護されている。相模原市の養護施設で起きた元職員による大量の障害者殺戮は、障害者の存在が社会の迷惑であるという理由で単独犯行に及んだ。

 他人を殺戮する行為に正当性はないが、突然命を奪われた被害者である障害者が痛ましいとする報道に、一抹の疑問が残るのも否定できない事実である。一様に掛け替えのない家族の一員であったと語る遺族の言葉が、何故か素直に腑に落ちないのである。それほどまでに大切な家族であったなら、なぜ一緒に暮らそうとしないのか不思議である。

 老い先短い高齢者がなぜ全国の病院に溢れ、占拠するが如き様相になっているのかを考えねばならない。誰も真実を語ろうとしないが、早い話が家庭内で家族の重荷になって迷惑しているから病院や施設へ放出したのが本音であろう。建て前と本音が違うのは日常茶飯事だが、人間の弱みを利用するエゴが見え隠れする事実は事実として認識せねばならない。

 タイトルにした「馬鹿につける薬」は実際にはない。何を以て馬鹿と言うかの議論はさておいて、古今東西昔から"知恵足らず"の人間は五万といた。身近な例を挙げると我が家の老妻もその部類である。母親が傍目にも分かる「精薄者」なので、直接遺伝でそれを受け継いでいる。老境に近づくにつれて顕在化し、齢80になっ今や隠しようがない。

 老夫婦二人だけの生活で、連れ合いの耳が聞こえなくなったのを理解できない。何千回何万回言い聞かせても理解できずに、一人だけの会話に終始している。返事が返って来ようが来まいが、一人でしゃべり続けている。まるで落語のオチを地でいっているようなものだが、知らない他人が見れば薄気味悪いということになるだろう。

 毎日の生活ではこれまた極めて特色ある行為が再三見られる。物事の善し悪しが屡々逆転して、どうでも良いことに徹頭徹尾こだわり、大事なことは言われた矢先ですぐ忘れる。開けた戸やドアを閉めず、何事によらず「やりっ放し」である。違うと指摘されても親を見て育っているので、違うと指摘する相手を敵視するのである。

 個人的生活に留まっている間は笑い話で済むが、これが集団化して国家の段階に至ると笑ってはいられなくなる。その代表例が我が国の刑事司法で、加害者の人権が一人歩きして被害者やその遺族、関係者の逆鱗に触れている。誰がどう見ても片手落ちだと思われる法制度が、薩長藩閥の明治政府の思惑を未だに色濃くとどめている。

 最高裁の大法廷に居並ぶ判事の面々が、なぜか頻繁にテレビに登場するお笑い芸人より見劣りするから不思議である。いっそのこと最高裁判事を全員お笑い芸人にすれば、今よりは余程ましな判決が続出するかも知れない。そんな不謹慎な夢想も、「馬鹿につける薬」同様に実態がない。

 実態があるのは我が家の「阿呆妻」だけだ。しかしこれにも矢張りつける薬はないのである。加害者と被害者に分類すれば、圧倒的に気づかない加害者の立場が優位に立つ。それでも家族なので放置できずに、50有余年共に生活している。家族とか当事者とかは、それが普通であろうと思うが違うだろうか。

 コロナ・ウイルスの感染ではないが、社会の迷惑を最低限にとどめる責務は我が家の家族計画にも反映した。何度となく中絶手術を繰り返し、子供は息子一人に留めたのもその一環である。責任を言葉で言うのは容易い。痛みを甘受して責任を全う出来るか否かが本物の真価で、「馬鹿につける薬」はその際にのみ有効となろう。