獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

消え去る情報と残る情報

 現代社会はSNSの登場によって「猫も杓子も情報」の時代になった。新技術について行けない高齢者は大方取り残されているだろうと思いきや、二極化されていち早く新技術を取り込んで時代の最先端に親しんでいる御仁と、何が何だか分からないまま"やぶにらみ"して置き去りにされている御仁とに分かれている。

 高齢者の多くが属する旧世代人にとっては情報と言えば新聞とテレビで、それらが伝える情報に疑いを持つ人はごく一部の特別な思想人と相場が決まっていた。誰言うとなく情報は神聖で犯すことが出来ない価値を有していた。伝える側にプロ意識があり、一際高いプライドがそれを支えていた。事実と信じるのに足る重みがあった。

 現代はというと冒頭の"猫も杓子も"の例え通り、携帯やスマホでプロ・アマを問わず誰でもが情報発信人になっている。情報という言葉の定義が大きく様変わりして、言ったら悪いが一見どうでも良いことまでが"味噌も糞も一緒"(失礼!!)になっている。凡そ情報の名に値しない情報がSNS上に所狭しと並んでいる。

 超個人的と思われるそれらの情報を誰が見るのかと疑心暗鬼の眼で確認すると、膨大な数の無関係な受け手が居て、何ら直接関係がないことをあれこれ発信する。根も葉もない情報という名のモンスターが多数出現して、それを面白がって囃し立てる他人同士で共有され、更に根も葉もない枝葉が増えて巨大化していく仕組みになっている。

 得体が知れない情報が世に溢れ、往時のように鵜呑みに出来る信頼度は遙か彼方へ消え去った。近代資本主義の悪弊ばかりがやたらに目立つ時代になり、利益至上主義によって人工的な情報が膨大に増え、「合法的な詐欺」が公然と大手を振って電波に乗って闊歩している。「情報は胡散臭いもの」と認識せねば、この現代社会を生きるのは困難だろう。

 生まれては消えていく膨大な情報の中で私たちは生きている。情報の大本であるニュースが、フェイクとリアルに分類される時代である。何を信じて生きるかを考えるのは個人の「自己責任」に任され、その個人を取り込むために故意に膨大なフェイク情報が仕組まれている。表面を取り繕って美化された虚偽情報が、本物や「真実」を凌駕する時代になった。

 虚偽と真実が入れ替わった現象が世の中のあちらこちらで見受けられる。不思議なのはそれらを不自然だと感じる人たちが激減したことである。芸がないのに何故か芸人と呼ばれて世に"のさばる"人種が、同種のタレント群を引き連れて国営放送(?)を取り仕切る時代である。本物と偽物とが逆転して、今や偽物が本物を踏み潰して闊歩している。

 それらの誠に奇妙な現象の大本は、決まって「情報」と呼ばれる巨大なモンスターである。目に見えず、耳にも聞こえない凡そ実態のない怪物がその正体である。マスコミはかつて身につけていた「真実性」と「誇り」を自ら脱ぎ捨て、その巨大なモンスターの"引き立て役"に成り下がった。最早新聞の購読料やテレビの視聴料は支払うに値しない。

 真に価値を有する「情報」は長く記憶に留まり時代を超えて歴史に残るが、その「情報」と呼ぶに値する「情報」がどれだけあるかを見定めるのが容易ではない。美空ひばりの最後の歌となった「川の流れのように」にあやかれば、影も形も留めず流れ去る川の水のような"情報化時代"を私たちは生きている。

 時代の淘汰を待たないと偽物か本物かが判別できない「情報モンスター」と、あなたはどう付き合っていますか?? 騙されずに「真実」が見えていますか??