獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

コロナ・ウイルス新時代

 新型コロナ・ウイルス感染拡大に伴う「非常事態宣言」がひとまず全国的に解除された。たかだか3ヶ月足らずの短期間だったが随分長く感じるのは何故だろうか。誰も経験したことのない前代未聞の事態であった他に、急転直下生活の変容を余儀なくされたことが大きな要因であるのは間違いないだろう。

 これまで私たちはグローバリズムに飲み込まれて、市場経済による利益の追求に日夜明け暮れてきた。利益至上主義とも言うべき世界の潮流をごく当たり前に受け入れ、本家アメリカに追随して優等生然と振る舞ってきた。カネがすべてを支配する万能薬との神話に異を唱える人はいなかった。科学技術の発展に胸を張り、地球上に君臨して憚りなかった。

 不可能という言葉を悉く否定し続けて今日に到っている。その慢心が肉眼に見えない細菌によって脆くも崩れ去った。世界中の誰もが立ち向かえない無力さを露呈した。人類が誇ってきた科学技術をあざ笑うように、その細菌は先進国・途上国を問わず猛威を振るい人間生活の根底を揺さぶった。

 資本主義も共産主義も関係なく、コロナ・ウイルスは平等にイデオロギーの無力さを暴いて見せた。知性や教養に関わりなく人間社会を飲み込んで脅威を示したのである。オロオロして立ち往生する人間社会の様相のどこに、その尊厳や誇りを見い出せたであろうか。自然界の猛威に出喰わすたびに足元の立ち位置を見直す言葉が聞かれるが、その議論がどの程度実現したであろうか。

 いま「日常生活の変容」が声高に叫ばれている。何をどう変えるべきなのか。何がどう変わるべきかは、国や人それぞれの事情によって一様ではないだろう。実際にコロナ・ウイルスの脅威に直面した人と、そうでない未体験の人とでは根本的な認識そのものが大きく異なるだろう。猛威の渦中にある時はある程度の実感があっても、"喉元過ぎれば" 何とかの問題もある。

 生活そのものを変える必要性を頭では理解していても、何をどうすべきかの実感を伴うのは言葉で言うほど簡単ではない。人間は基本的にルーズで怠惰な方向へ流されやすい。他人のことはよく見えても、いざ自分のことになると意外なほど気づかないものである。生活を変えるというのは目に見える部分が多いので、ある程度の意思と決意があれば特別困難なことではないだろう。

 現代社会は様々な矛盾に満ちている。近代資本主義の綻びがあちらこちらで目立っている。けれども社会を構成する個人が変わらなければ、結局のところ社会は変わらない。変わりようがないのである。カネ万能社会が異常だと思っても、各個人がその神通力から解放されない限り世の中は変わらないのである。

 コロナ・ウイルスは物言わぬが、言葉を持たなくてもその脅威は言葉を超えて強大である。コロナ・ウイルスは私たち人間に言葉による表現や、科学技術の後追いを超える大きな存在が現実にあることを示した。人間生活の知恵や習慣を超える"何か"を示唆した。それぞれの大きさや影響度をどう理解して、実際の生活に取り込むかは個人の問題だ。

 新型コロナ・ウイルス感染拡大に伴う「非常事態宣言」は取り敢えず収束するだろう。後に残るのは国や自治体の施策以上に影響度が高い個人段階での生活改善だ。本当の意味で各個人の知性が問われるのはこれからである。