獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

普通の暮らしと人生

 現代社会は豊かで便利な高度社会だと言われている。物事は見方と感じ方で解釈が異なるので一様ではないが、そう感じることが出来る人は極めて幸せだと言えるだろう。その反対で努力に見合った報酬や成果が得られず、何とはなしに時代に置き去りにされていると感じる人も少なからず居るだろう。

 普通の暮らしという言葉の意味が変化して、極めて普通だと思っていた自分の暮らしが気づくと普通からかけ離れていたと感じている人も居よう。中には何が普通か分からないという人もいるだろう。普通という言葉は人それぞれの置かれた環境や立場でかなりの違いを有するので、明らかに異なる両極端を併せ持っている。

 よく言われる中庸も何が端かで立ち位置と意味が違うし、特定するのは簡単ではない。政府の見解や政治家がよく口にする言葉のように、その時々で都合良く色や形が変えられるばかりでなく味わいも変わるようだ。極上のステーキやスイーツだって、普段からそれに慣れ親しんでいる人にはごく普通のことで特別の意味は持たない。

 けれども世の中には生涯それらの極上のステーキやスイーツに有り付けない人が現実に居る。日々の暮らしに追われて自らの暮らしに思いが到らない人もいる。だからと言って不平等だ、不公平だと不満を口にする人は少ない。実際に暴動が起きたこともない。何故だろうかと考え始めると、巡り巡ってどうしてか普通という言葉に行き着く。

 いつの時代も人々は自分とその身の回りを普通だと受け止めてきたように思う。物事は思いようで様々に変化するし、本来は普通でない状況も普通だと思い込まされてそれぞれに生きた。明日は息子や兄弟が戦場へ駆り出されるかも知れないという非常時でも、誰言うとなくそれは普通のことだと受け入れて生死を分かち合った。

 コロナ・ウイルスの感染拡大防止のためマスクを着用する人が街に溢れても、それを不自然だと思う人は少数派だろう。決して快適だとは言えないその着用感に不満を言う人は見掛けない。何故ならそれが世の中の大勢で、皆がそうしているからそれが普通だからである。一食数万円の高級料理を普通だと思う人がいる一方で、一食数百円のラーメンに強いこだわりを持つ人もいる。

 そのいずれもそれぞれの人にとっては特別なことではなく、ごく普通のことなのである。事程左様に普通という言葉には普遍的な基準がない。例え潤沢な資金に恵まれて豪華づくしの生活をしていても、その当人が満足しているか否かは別問題だ。より快適な暮らしがある筈だと思えば現状は不満だろうし、際限なく拡大する欲望を満たすのは容易ではない。

 普通と同様に快適の基準も人それぞれだからである。人間の欲望は無限で、どこまで追求しても着地点を見出すのは難しいから、どの辺りで自己抑制を働かすかだろう。善し悪しは別にして現状に満足を見出せるかどうかで結論は大きく変わる。満足と同じく不満もまた際限がない。そこへ嵌まり込んでしまうと、不満だけが一人歩きしてしまう。

 不満のための不満が限りなく噴出して、次々と複雑怪奇な悪夢に苛まれることに相成るようだ。見るもの、聞くもの、感じるもののすべてが一元的になって、時にはあらぬ被害妄想に取り憑かれて自分自身が見えなくなるらしい。自己責任を回避してすべての物事が社会や他人の精だと思い込む。

 人生は良く山登りやマラソンに例えられる。個々に違いはあってもそれぞれにかなりの長丁場で、何らの事前準備やトレーニングなしに始める人はまずいない。なのに実際の生活では凡そ無防備と思われる装備や準備で日々を生きている人が少なくない。場当たりという表現がピタリと当て嵌まるのに、それが自分だと気づく人は更に少数派だ。

 自分の暮らしに満足している人も、或いは不満だらけの人も、等しく普通という言葉を多用する。生きていることが普通だと思い込んで、自らの身辺や足元を見直すことをしないのが「普通」なのである。何らかの理由で生きることが難しくなって、人は改めて自分と向き合い、家族と向き合い、社会や時代と向き合う。

 影も形もない「普通」に気づいて自分が普通なのかどうかを問うのだが、答えを見出すのは簡単ではない。当たり前だと思って遣り過ごしてきた日々が急に色づいて、何気なく見過ごしてきたことがとても重要で大切だったと感じるのである。影も形もなかった「普通」が色や形ばかりでなく、舌に残る味わいまでも伴って蘇るのである。

 生きることが決して普通のことではなく、想像を超える多くの他人に支えられていることが見えてくると、否応なく自分自身の立ち位置も明確になる。努力したか否かも今更ながら自分に返ってくる。それらの一つ一つが自分の人生で、その中で自分が紛れもない主人公であることを実感させられる。そして自分にとってはの「普通」を噛み締めることになる。

 普通は絵に描いた餅ではなく、それぞれに相応の重さで身に迫るだろう。当たり前の多くが自分自身の身勝手であったことに気づくだろう。普通は決して雲や風のように消え去るものではなく、身近な実態を伴う掛け替えがない存在になる。普通でありたいと願い、普通であることの重要性が身に迫る。あなたの普通は如何だろうか。