獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

流れ去る時代

 最近は聞かれなくなった言葉の一つに「光陰矢のごとし」がある。時間の流れる早さを強調した言葉だが、現代社会は悉く人工的に操作されているのを不思議とは感じずに、むしろそれが"普通で当たり前"だと感じる人の方が多数派のようだ。すべてが不自由で不便だった戦中・戦後の時代を知る高齢者は、時に普通であることに少なからぬ違和感を感じることがある。

 食べるものがない、着る衣服がない、住む家がない。無論仕事はなく、怪我や病気に見舞われても治療代が支払えないから病院へ行けない。貧しさの不都合を訴えようにも受け皿になる窓口はなく、皆が自分の暮らしに追われて他人の面倒に手が回らない。それが"普通で当たり前"であった時代があったことさえ多くの世代は知らない。

 「貧しさ」の定義が時代と共に変わって、現代の貧しさはカネやものをたやすく得られる層と、努力しても自分で得られない層との二分化であるようだ。生まれた環境が異なることで差別が生じる既得権が社会を支配している。あらゆる分野で「世襲」が蔓延して、既得権を持たない圧倒的多数派は"冷や飯食い"を余儀なくされている。

 人間は生まれながらにして平等だと学校で教えられても、現代人の何人がそれを信じるだろうか。権利や義務などの制度も自由という金科玉条の前には色褪せて、優秀な成績で大学でそれらを学んだ人たちが"これ見よがし"に率先して法律違反を犯す。河井前法相の選挙違反容疑は私たちに何を語りかけているのだろうか。法治国家という言葉が虚しく踊っている。

 選挙制度をないがしろにする違反行為が日常化して、民主主義は機能を失っている。それでも東京都知事選は行われ、前代未聞の怪しげな候補者が乱立している。何のための、誰のための選挙であるのかが分からなくなっている。河井前法相の選挙違反容疑では政府・与党が一体になって1億5千万円の巨額な資金が提供されている。

 連日テレビや新聞が報じても政府や与党自民党は誰知らぬ顔である。批判もなく責任を感じる者は誰一人いない。これが現代の正義だと言わんばかりに、制度を弄んで恥じるどころか"これ見よがし"である。カネの前には誰しもがひれ伏して黙し、人間の尊厳など"絵に描いた餅"であることを実証している。正邪は都合次第で逆転するのが「現代の正義」だ。

 カネやモノが有り余り豊かで便利になった現代社会は、「豊か」という妄想に浸りきって「貧しさ」を忘れ去った。貧しさとはカネやモノがないことだ。それを得ようとして努力しても得られないことだ。それでも"ひもじさ"に耐えて、人の心を失わない状態である。懸命に汗する努力を失わないキラキラした時代であった。

 時間は無情に流れ去るが、その流れ去る時間の彼方に何か大切なものを見失って仕舞ったのではないだろうか。形振り構わずに既得権にしがみつき、欲得こそ人生であるように勘違いしていないか。日本人であることの意味を見忘れてはいないか。時間も大河の一滴も、流れ去れば元に復さない。カネもモノも一瞬の栄華である。

 一瞬の栄華に身をやつし、人間としての価値や尊厳が逆転した時代に私たちは生きている。誰がそうしたかは敢えて問うまい。みんなが知りつつみんなが知らぬ振りを決め込む"豊かだと言われる社会"で、民主主義だと言いながら誰も主人公にならない奇妙な現象を「普通」だと思い込んでいる。主権在民という言葉は教科書だけで生きている。

 正邪も、善悪も、大小の違反も、みんなが見ぬ振りすれば時間が押し流してくれる。流れ去ったものはすべからく正義の衣を纏い、角が削れて見栄えが良くなる。それを歴史と呼んで次の世代が評価する仕組みだ。兎にも角にも押し流して顧みないのが現代流儀のようだ。それが普通になった時代にも、そうは感じない前世代人が少なからず生き残っているのである。