獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

単調な日々

 毎日の暮らしを単調だと感じるか否かは人それぞれだろう。皆が同じように見えても違う暮らしをしているのだから当然だが、仮に同じ暮らしであったとしても感じ方や思いようは同じではないからそれぞれに異なる。職業や家族を含めて全く同一という暮らしはまずないだろう。

 多くの場合は同じと思えば思えなくはないというのが本当の処だろう。それほど左様に人の暮らしは千差万別である。大抵は朝起きて用便をして食事をする。何を着るか、着ているかは故意の場合もあれば、無作為にあるがままという場合もある。それから始まる一日の暮らしも同様で、多くの場合は自身が選択した日常の筈なのにいつの間にか誰かに急かされているような日々に変わっている。

 慌ただしく時間に追われるように、決まりきった動作を繰り返すのみになっているようだ。こんな筈ではなかったと多くの人が思い、自分の人生はこれで良いのだろうかと自問自答しながら、あくせくと駅へ急ぎ会社へ急ぐ。仕事があるから会社へ出勤するのに、何やら決まりきって会社へ行くことが目的で、それが人生になったような生活が繰り返される。

 必ずしも自分が望んでそうなったわけではないと自分に弁解を用意し、単調で退屈な毎日と向き合っている。息子や娘などの家族のためだと自分に言い聞かせ、独り合点してパソコンに仕事を託す。IT化で額に汗することなく単調な仕事は流れていく。自分がその場所にいなくても、すぐに誰かが代わるだろう。自分の存在感とは何だろうと思い悩みながらも単調な日々を過ごしている。

 単調な日々も積み重なると相応の色を帯びてその人独自の人生を醸す。その色合いの濃淡は当事者にとって掛け替えのないもので、決してただ単調な積み重なりではない。いかなる絵の具を用いても表現できない陰影を備えるのである。生きた軌跡は"いぶし銀"の輝きになって感動へと誘うだろう。

 誰の人生にもそれぞれの色がある。自然が生み出す造形の如くに、言うに言われぬ風情が示される。それは紛れもなく自分自身であり、誰彼の借り物ではない。どんなに単調だと思っていた日々にも必ずドラマが秘められて、そのヒーローやヒロインは自分だったと述懐する日が来る。何らの作為がなくてもドラマは成立するのである。

 年齢を重ねると色々なドラマと出会う。若い時分には自分形であったドラマが、次第に自分を離れて他人形に見えてきたら、より濃密な人生が味わえるだろう。単調だと思われる高齢者の日常は決して単調ではない。自分次第で様々な濃淡のドラマを見ることが出来る。そのドラマの主役にも、そして脇役にもなれるのである。