獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

人間の艶と輝き

 人間としてこの世に生を受け生きていても、誰しもが艶を帯びて輝いているわけではない。だからそれらの「艶と輝き」を兼ね備えた御仁にお目に掛かると、物珍しさだけではない「徳」のようなものを頂いた気分になる。終日どころか次の日も、そしてその次の日も、何やら自分までも「艶と輝き」を得たような高揚感を覚えるのである。

 人間の「艶と輝き」とは一体何だろうと考えるが、哀しいかな凡才にはすぐに思い当たる材料が乏しい。それでもなお諦めずに考え続けると、若しかしたらと思える手掛かりに突き当たる。自分自身とその周辺を見渡してみても、人間としての艶を失い干物の如き様相の人物には事欠かない。外見は兎も角として、人間としての中身が"干からびた干物"そのものの同類は五万といる。

 同じ人間なのに、同じ日本人なのに、どうしてこうも違うのだろうか。生まれ落ちた時点では大差なかったものが、その後の人生で身につく人間性と人格とで大差が生じるらしい。同じ木材の柱でも白木の状態から黒光りする威光を放つ状態に変わるものと、朽ちてボロボロになるものとがあるように、人間もまた命在るものの宿命を生きている。

 さほどの大きな波風もない平凡な人生を生きれば、その結果として残る人間性や人格も多くの場合凡庸になる。可もなし不可もなしの平凡な圧倒的多数派となる。凡庸であることに疑いを持たず、周囲の他人に同調して流される如くに生きれば、日々の暮らしで角が立つことは少ない。常に多数派に組みしていれば責任を問われることがなく、何かにつけて楽にのんびり生きられる。

 それらの圧倒的多数派の中にも、ごく稀に「艶と輝き」を兼ね備えた人物は存在するだろう。しかし、黒光りして威光を放つほどに鍛錬され、熟練の境地に到達している人は珍しい。むしろこれと言って特徴がない、同じ顔の御仁が累々といる。不思議なもので同じような人生を歩まれた方々は、考え方や感じ方のみならず何故か姿形まで似通っている。

 「艶と輝き」を兼ね備えた少数派の方々は、何もせずとも目立って異彩を放っている。その周囲には幾重にも人垣が出来て、その方の一挙手一投足を食い入るように見詰めている。決して特別の行動はしないのに、口から発せられる言葉はまるで命を持っているように生き生きと躍動して響き渡る。周囲の人々の心に深く染み入るのである。

 大きな波風を全身で受け止めて、聳え立つ高峰を踏みしめてきたその足下には無限の大地が広がる。遙かな地平を見渡すその眼には途切れることのない理想郷が宿っている。神仏の可否を超えて、生きることの意義と品格が輝きを放って内面から滲み出ている。同じ人間なのに、どうしてこうも違うのだろうと不思議に思えてならない。

 本物と偽物という言葉が妥当かどうかは分からないが、品物だけでなくそれ以上に人間の価値は差が大きい。気づかないまま時代に翻弄され、自身の主体性をすら見失っている御仁が数多いる。自身が「干からびた干物」になっていないかどうか、生きているついでに問うてみるのも一興である。