獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

拘りと自由

 世界は現在自由な社会と、不自由な社会に二分されている。不自由社会の頂点に君臨しているのは言わずと知れた北朝鮮と中国の共産主義国家だ。幸い私たちが暮らすこの国は、他の先進国と同列の自由主義陣営に属している。自由が原則として保証されている。善し悪しは別として全身自由に浸かっていると、自由と我が儘の境界線が見えにくい。

 自分の思い通りになることが自由だと勘違いしている人が世の中に多くいる。理論的な定義はさて置いて、自由は多くの場面で身勝手と混同されがちだ。人によっては勝手気ままに振る舞えることが自由だと思って、傍迷惑も考えずに傍若無人ぶりを発揮している御仁が少なくないのである。例えが古くて恐縮だが、"箍が外れた桶や樽"の類いである。

 自由社会で社会的制約とは別に己を律するのが「拘り」である。他人に強制や束縛されることなく、自分で自分を律するのは言葉で言うほど簡単ではない。深い思慮とそのベースになる知性と教養が欠かせない。高学歴社会が実現した我が国だが、それがそのまま見掛け通りの知性的社会を形成しているとは到底言えないようだ。

 街へ出ればスマホを片手に通路の真ん中を歩く人が絶えないし、車へ乗れば我先にと"割り込み運転"や通行区分を無視した"あおり運転"の類いに出会わぬ日はない。どうしてこうまでに人間社会はルールやマナーの無視が氾濫するのか、各人の知性と教養が泣いているかの如きである。人間が人間を殺傷するような行為が、自由という名の下に放任されている。

 礼儀正しく自己抑制する民族だと世界で讃えられた日本人なのに、いつから何故、ルールやマナーを地に落としてしまったのだろうか。知っていながら罪を犯すのは確信犯である。理由を問わず「自己抑制」出来なくなった巨大な欲望に支配されて、邪悪な感情の赴くままに野獣化している。正義の剣である筈の「知性と教養」が逆用されて、邪悪な犯罪行為を助長している。

 人生の舞台である生活の場で、拘りを忘れたり放棄した人間は極論すれば人間に値しない。自分で自分を制しきれないとすれば、何もせずとも生きているだけで他人迷惑を及ぼしていることになる。この種の人種は多分自分で気づくことはないだろうから、余計に厄介で迷惑である。現代社会は正邪と善悪の境界が曖昧だから、事実上"野放し"だとも言えるようだ。

 物事に拘ることを忘れると、時代という大河に押し流されるだけになる。生きることの基軸が失われて、常識がそもそも常識でなくなる。非常識とされていたことがいつの間にか常識の衣を纏い、判断基準が曖昧なまま世の中の大勢を占めるようになる。「自己責任」だと言われていたことが、皆が他人を真似て誰も責任を負わなくなる。

 拘りは大小様々だ。日本人だから米食を選ぶという古い時代の習慣が曖昧化して久しいが、基本的には何をどう食おうが自由であり勝手だ。欧米の猿真似をすることが先進的ではないし、以前からある麺類を愛することが古いと誰が決めつけられるだろうか。むしろそのことよりも、日本人が主食としてきた水稲は栽培技術において世界の穀類の頂点であるのを、どれくらいの日本人が知っているだろうか。

 知性と教養に満ちている筈の「高学歴社会」も、蓋を開けてみればこの程度である。自分の生活の足元さえ覚束ない。拘りは物事の本質を知り、その本質に拘ることだ。簡単に失って良いものと、失ってはならないものを区別できるのが知性である。思慮せず大勢に押し流されるのは「分別がない」と言われた時代が、少し前まで私たちの目の前にあった。

 物珍しい新しいことが優れているという保証はどこにもない。なのに人はややもするとすぐに新しいものに飛びつく。自分自身は古い儘なのに、新しいことに飛びついて自分も新しく生まれ変わったの如き錯覚に陥りがちだ。拘りを失った人間は為すことなく世の大勢に押し流される。やがて感覚が麻痺して押し流されていることにさえ気づかなくなる。

 大いに拘りを持とう。一杯のラーメンの旨さは時にどんな高級料理をも凌ぐことがある。そのことに誇りを持とう。高価なモノや料理に目を奪われ、本来の自分の嗜好を忘れてはならない。主体性とは何かを考えよう。自分を律するグッズを豊富に持ちながら、そのことに気づかず"よそ見"するのをセーブしてみよう。

 豊かで便利な社会に生きている筈なのに、それを実感できずに身悶えても別の何かが得られるわけではない。豊かであるが故に、便利であるが故に、気づかず私たちは多くのものを失ってはいないか。本当の豊かさとは何か、本当の便利さとは何かを、時に歩みを止めて立ち止まってみてはどうか。私利私欲ではない本来の自分がきっと見えるだろう。