獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

老人日記(12)

人間の気分というのは結構いい加減なものだ。梅雨の長雨が延々続くと嫌になり、天気予報が外れて予想外に晴れたりすると途端に何やら得した気分になる。普段は真面目腐った顔をして何の彼のと理屈を述べている御仁とて、所詮は大同小異であろう。人間色々な程度差はあっても、押し並べて見れば左程変わりがない。

 人間は高等動物で、他の諸々の生き物は比べれば下等だと位置づけて憚らない人間だけど、いざ豪雨や風水害などの自然災害に遭うと丸っきり面目を失う。何も出来ず呆然と見過ごす以外の方策・手段を持ち合わせていない。それなのに災害が遠ざかると途端に、ここぞとばかりに普段馴染みのない顔の政治家が出て来て、あれやこれやと宣う。

 そのどれもこれも目新しいことではなく、担当する官庁の役人が書いたメモや原稿をただ読み上げるだけである。その事柄の意味さえ良くお分かりになっていない御仁が、いかにも神妙な表情で国民にもの申すのだから、これほど国民を馬鹿にした茶番は他にない。しかも事ある毎に毎度お馴染みで登場するのだから、最近の若いお笑い芸人同様におかしさを通り越して腹立たしい。

 この時代は世の中を見回すとおかしなことばかりである。小学生でも分かる理屈の買収選挙で妻を参議院議員にした御仁が、こともあろうに法の総元締めの法務大臣に任命される。誰がどう考えたって凡そ想像できないことが、21世紀の現代社会の先進国で堂々と現実になっている。しかも、こともあろうか任命した国権の最高責任者が何らの責めを負うこともなく、素知らぬ涼しい顔をしている。

 おかしく不思議なことはそればかりでない。どう弁解しても正当化できないその大事件を非難し、指弾しようとの動きがない。当たり前の普通のこととして見過ごそうとの空気が世の大勢だ。政治家が選挙で巨額の現金をばらまくことが当たり前で、それを咎め立てする方がどうかしてるとでも言いたげである。取り澄ました顔で何事もなかったように振る舞うことが、知性人や教養人であるかの如き風潮すら濃厚だ。

 自然災害がもたらす惨禍はそれ自体の被害もさることながら、そこに生きる人間の普段の所業がいかばかりのものかを白日の下に曝け出す。人災であるそれらの事実は、平常時には人目につかずに放置され、誰もが自分に関わりないこととして認識されて「見て見ぬ振り」を許している。元は小さな「無責任」も、放置されて増殖すればコロナウイルス同様に巨大な威力を持つに到る。

 民主主義もメンテナンスを怠ると風化して形骸化する。世界の先進国がこぞって陥っている現代病は、原因を突き詰めると人間の劣化に他ならない。誰もが気づかないままに地に足が付かない「浮遊病」に犯されている。空中を彷徨うが如くに生きて、不都合は悉く他人の精や社会の精にして憚らない。それらは誰かが何とかしてくれると漠然と思い込んでいる。自分が当事者であるとは考えないのが"当節流"のようだ。

 梅雨の合間の晴れは気持ちが良い。どんなに最先端の技術を投入しても一向に覚束ない天気予報のように、人間が出来ることの限界はほぼ見透かせる。それでも飽くことなく人間の尊厳と可能性を追いかけるのは如何なものであろうか。無限の命を有する神や仏には到底遠く及ばないことを自覚し、「分相応」を心得る必要がありはしないか。

 当たり前のことが当たり前でなく、普通のことが普通でなくなる時代が、なにゆえ快適な「豊かで便利な時代」なのかを、梅雨の晴れ間の青空を眺めながら考えている。もう間もなく自分の命が尽きようとしているのを自覚しながら、まだ動く手足を不思議な感慨を抱きながら愛おしんでいる。命は見えないが何かしらの大きな力で維持されているようだ。

 神仏にすがろうとの気は毛頭ないが、信仰の有無とは別によりリアルに命を見詰めている。時々サボタージュをして停止する肺と心臓だが、それでも熱を出しながら活動し続けている。夜半に寝汗で目覚めるのはいつものことだが、自分でパジャマを着替え、濡れた敷き布団の汗取りパットを淡々と交換する。肺癌が進行して肺炎状態の重症高齢者は、今も生きているのを実感しながら営々と日を過ごしている。

 秒刻みとなった残り少ない人生ゆえ、時代を覆う「いい加減」は捨て置けない。久しぶりに止んだ雨の合間に、空気が美味しいと感じながらそんなことを考えている。さて自分に何が出来るか、何を為すべきか、をである。