獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

味気ない音楽と味覚

 長雨の後の猛暑である。コロナウイルスが威力を減じずに、人間世界の懸命な努力にも関わらず相変わらず勢力を維持し続けている。旧盆が近づいて例年なら故郷への帰省や、バカンス旅行に盛り上がる時候だが、今年はすっかり様変わりの様相だ。またぞろ外出自粛や商業店舗の営業自粛が復活している。

 そんな地上の騒ぎとは距離がある高齢者はこれと言って特別為すこともなく、招かずとも訪れる毎日の「今日」と向き合っている。日々流れ去る「今日」という時間の中で、少しだけ優雅な気分を味わおうとネットを活用して新旧の音楽に接している。特定のジャンルに固執するタイプの人間ではないので、バッハから演歌まで幅広い音源に親しんでいる。

 音楽もさることながら、食文化に対する愛着や執着が人一倍強い。格別固執して聴く必要がある音楽もあるが、それらを除いた比較的軽い分野の音楽は何かを口にしながら聴くとより一層親しみが増す。不作法ではあるが自室で一人スピーカーと向き合う時は、時々これを実践している。定番のコーヒーに加えて、時には熱々のラーメンやたこ焼き、お好み焼きなどが加わる。

 物事にはすべからく「味わい」というものがある。音楽もその一つで、その音楽を聴きながら口にする食べ物も例外ではない。時に心揺さぶられる音楽もあれば、美味さ加減に思わず"盆踊り"でも始めたくなる嬉しい食べ物もある。人間とは何と単純なのであろうかと思わず感心しながら、それでも耳と口は役目を忘れずにしっかり働くから感動ものだ。

 毎度余談が多くて恐縮だが、本筋の音楽を語れば最近の傾向として両極端が増えていると感じる。全身を震わすほどの感動をもたらす本物の音楽が減り、ちっとも楽しくも面白くもない味気ない音楽や歌が増えた。時として不愉快さを催す"砂"以上に味気ない、"雑音や騒音"の類いが全盛を極めている。

 自由競争で利益になるものが須く「良いもの」とされる時代だから、高品質や高品位は二の次で、ともかく売れればいい。音楽そのものの内容を充実させることよりも、売るための商策に多くのエネルギーが費やされるこの時代相応といえばそれまでだが、よくもまぁこれ程見事にピントが外れているものだと感心させられる歌や音楽が溢れている。

 "玉石混淆"や"味噌も糞も一緒"というものの例えがあるが、正にそのものズバリである。味わいに欠ける音楽は、味気ない食べ物以上に人間生活にマイナス効果を及ぼす。まずい食べ物は口から吐き出せば済むが、味わいに欠ける音楽は暫く心に残る。個人差で長く心に汚点となって尾を引く人もいるだろう。

 一般的な歌や音楽を例にすれば、どうしてこれほどつまらないものを制作して、ご丁寧に世に送り出すのか首を傾げざるを得ないものが海千・山千である。どう間違えても世の中の人に受けて支持されるとは思えないものが、何故か次々に世に登場する。敢えて古い表現を持ち出せば「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」ということなのであろうか。

 この時代はどうやら感動の意味が大きく変わったらしい。何事も「らしく装う」ことで済ませるのが新しい流儀らしい。歌や音楽そのものに人を感動させるパワーや要素がなく、感動している風に装うことで"感動を共有する社会"を構成しているらしい。「音痴」とはなんぞやの議論が語られなくなって久しいが、音感に乏しい"らしさ人間"がやたらに増えた実感がある。

 歌や音楽が"死に体"を呈しているのと比較して、食べ物は豊富だ。簡単に世界の食材が手に入る時代の到来だ。グローバル化がどうであれ、手軽に美味しいものに有り付けるのはこの上ない幸せである。「音音痴」が世の多数派であるのに比べれば、「味音痴」はずっと少数派だ。殆どの人が自分の味覚に敏感だ。

 心に沁みるクリュイタンス・バリ管のフォーレ「レクイエム」や吉幾三の「あの頃の青春を詩う」を聴くと、"本物とは何か"との思いが強くなる。世に流布する音楽に本物・偽物の区別はないと思うが、聴いた後の余感や余韻は明らかに違う。手軽で安易に"偽物"が作れる時代が、果たして「豊かで便利な時代」と呼べるのだろうか。

 クリュイタンスやフルトベングラーが色褪せないのは何故なのか。永い年月を経ても今なお"いぶし銀"の輝きを放ち続ける魅力の源泉は何か。吉幾三は演歌歌手である。雪深い津軽の里から上京して、独自の感性に基づく演歌を自ら長く書き続けている。他の歌手が歌った往年の名曲を外連味なくアルバムにした。それらを聴いて伝わるのは「命の歌」である。

 上手に歌って受けを狙うのではなく、己の全智全霊を歌に込めて歌い抜く男の魂の歌である。世に上手な歌手は掃いて捨てるほどいる。綺麗に上辺を繕う歌が世に溢れている。そのどれもが聴くに堪えない通り過ぎるだけの風であるとするならば、吉幾三の歌は若者の輝く声とは無縁の、枯れてなお毅然と風に揺れる葦の風情である。心のみならず全身を揺さぶる

 高齢者の感動はその多くがノスタルジーだと言う。特に異論を差し挟むつもりはないが、一方ではノスタルジーの功罪がある。フルトベングラーワルターは時代が古い。録音技術に到っては現代と隔世の感を否めない。音域が狭く音の強弱が平坦だ。それらの古い音源が尚も現代の私たちを感動させるのは何ゆえかを考えねばならない。

 言葉にすると誇張が感じられけれど、本物と偽物は明瞭に異なる。そこに人間の純な心と魂があるか。現代の技術や技巧で装う体の良い"誤魔化し"が全盛だ。むしろそれらの"誤魔化し"による妙で陳腐な音楽ばかりが目立つ時代だ。聴き手の側にも本物に反応する「感性」が用意されているか。それらが問われねばならない時代のようだ。

 世間で屡々話題になる「素」と「装飾」の違いは味に関しても同様だ。"甘い"と"旨い"の言葉の意味が区別できない現代社会では、やたらに素材の食材を加工する料理法や調理法が「大流行」である。文化遺産になった「和食」の神髄は"素材の味"である。あらゆる手を尽くして尚も自然の儘に拘る「和食」こそ、本物の「和食」であると確信する。

 本物の「本物らしさ」が失われて、偽物の「本物らしさ」が滅法目立つ時代である。それを受け入れて何らの疑問を感じない社会を、果たして正常だと呼べるのだろうか。高齢者はそんな素朴な疑問に突き当たりながら、今日もまた音楽と食事を楽しんでいる。