獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

坂道の途中で

 人間生きていれば色々な坂道に出くわす。実際に足を運んで上り下りする道もあれば、心の中の幾多の坂道もある。いずれにしても苦難や苦渋を強いられる厄介な行程である。それでも人間は自らの人生において、平坦路ばかりが続く生涯を思い描くことは少ない。程度の差はあっても必ずと言っていいほど大小の坂が登場する。

 幼少期に息を弾ませて昇った坂道が、青春期には忘れ難い相手と出会う思い出の坂道になり、家庭を持ち家族を思い遣る日々になると折々の生活の道になる。歳を重ねて途中で立ち止まって行き着く先を思い描き、来し方を振り向く道になる。坂の途中に咲くスミレやタンポポに、ツツジアジサイに気づくだろうか。

 夏の日の焼け付くような日差しを浴びて、坂の上に咲くひまわりの花を愛でたろうか。ややもすると自分の人生や生活だけに気を取られて、同じ時代の時間と空気を共有している様々無数の物言わぬ命がそこにあることを忘れがちだ。坂道を登る過程で噴き出す汗は、何を私たちに指し示しているのだろうか。

 坂の向こうに何があるのか。何が待っているのかは登り切らないと分からない。なのに私たちは勝手に色々な想像を巡らせて、坂の上で待っている未知の景色や世界を自分の都合に合わせようとする。思い通りにならないと苛立ち、自分以外のものに責任を転嫁して素直な努力を否定しようとする。

 坂道は決して楽な行程ではない。それなのに多くの場面で私たちは自分で自分の坂道を作っている。そしてその坂道が難儀だと嘆いている。本当の、真実の難儀は、坂道ではなく、自分自身の心の中にあることに気づこうとしない。多くの人たちが乗り越え、昇る朝日や沈む夕日に、熱い想いを託して時代を築いてきた。

 私の自宅前に66段の石段がある。春は満開の白や薄紅色の桜が咲き誇り、秋はその桜が葉を赤く染めて紅葉する。途中で立ち止まって見下ろし、或いは下段から見上げるのは大抵高齢者だ。それ以外の年齢層の人たちは一様に足早に通り過ぎる。自分がいま坂道の途中にあることさえ気づかぬ風情である。

 遙か遠くに霞がかって見えるビル群や街並みに目をやろうともせず、ただ無心に、無情に、坂道を駆け下りてゆく。その先に何が待っているのか分からないが、若しかしたら、そこに坂道があることさえ意識になく、表情を残さず通り過ぎる風の如くに人生を生きているのかも知れない。

 灼熱の太陽が照りつける日も、風の日も、雨の日も、変わらず坂道はそこにあり続ける。