獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

猛暑の後先

 ここ数年恒例となった猛暑だが、今年の猛暑はコロナウイルス対策が加わったので一段と暑い。各地で開催される盛大な祭りが軒並み中止となり、夏の風物詩が大きく様変わりしている。「当たり前や普通」と呼ばれる諸々のものは、意識しなくてもすぐ傍にあるのが通常で、それが突然消えてなくなるとは誰もが想像しない。

 豪雨災害でさっきまでそこにあった自宅が水に流されて消失するなども、似たような現象であろうと思うが、予期せぬ事態の到来は人間生活を根底から揺さぶる。猛暑の最中に炎天下でマスクを着用するなどと、誰が想像したであろうか。通常は考えてもあり得ないことが、往々にして現実化している時代を私たちは生きている。

 重病人のため外へ出られない高齢者は、せめてもの季節感に接しようと高層住宅8Fのベランダへ出てアルミ製の肘掛け椅子に腰を下ろしている。長雨が延々と続いて厚い雨雲に覆われ続けた空から雨雲が消えて、久しぶりに、本当に久しぶりに東京に青空が戻った。目の前の森に住み着いている鶯が朝早くから澄んだ声を響かせ、ベランダのガラス戸を開けると何やら黒い物体が腰の辺りに取り付いた。

 手に取ってみると大きな蝉君である。羽をばたつかせながら私の手から逃れようとしたが、少ししたら暴れるのを止めて温和しくなった。今年初めての蝉君とのご対面である。多分蝉君は迷惑であったろうと思うが、私は何やら嬉しさが込み上げてくるのを感じた。長くご無沙汰している旧友に久しぶりに再会した気分で、胸に込み上げてくる懐かしさに暫し酔いしれた。

 昨年の今頃は未だ病状が悪化する前だったので、天気が良い日は自宅周辺をよく散歩した。広い山の上の団地周辺は所々に天然の森が残されていて、深い緑に覆われた樹木の間から見える木洩れ日が幾多の筋を引いて見えた。森に入って少し歩くとあちらこちらに命を終えた蝉君の亡骸が落ちていた。それらを拾い集めて小さなお墓を作って葬り、両手を合わせた。

 つい昨日のことのように思える事柄が、何年も、何十年も前のことのように思い出される不思議な感慨を覚えた。もう蝉君たちと会える日は多分ないだろう。彼ら・彼女らを手に取る機会は巡ってこないのを知っている。自らの命もまた蝉君たちと同様に、暑い夏を再び迎えられるかは分からない。滅び行くものの哀れが目の前を去来した。

 今年は特に長く見えなかった遠くの山々がすっきり青く見える。点在する小さな白い雲と対比を為してとても気分が良い。時折飛び交う蝶や蜂の姿も確認されて、それぞれがそれぞれに命を輝かせて生きているのが見える。白い外壁の照り返しが強烈なので、重病人は長くベランダに留まれないが、限られた少しの時間のその少しさが愛おしい。

 コロナ騒動は余計だが、暑い夏は暑いなりの風情がある。まだ生きているのを実感しながら、噴き出す汗を拭っている。遠くや近くで聞こえる花火の音が、今年は聞けないかも知れないと一抹の寂しさを覚えながら…。