獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

散歩の憧れ

何やら妙なタイトルになったが、昨年まで出来ていたことが今年は出来ない。その落差を実感しながら、ガラス戸越しの景色を愛でている。濃い緑の森に飛び交う蝶と戯れた、それだけの、たったそれだけのことが、今は遠い日の郷愁の如しである。人間に与えられた運命は時に美しい波紋を描くこともあるが、残り少なくなった時間は取り戻せない。

 私の自宅がある山の上の広い団地は、アップダウンの道を少し歩くと近くに有名な「百草園」がある。江戸時代まで尼寺であった古い茅葺きの母屋が残されていて、解放されているその古びた縁側に腰掛けて、樹木の間を吹き抜けてくる涼しい風を受けながら暫し佇むことが出来る。遠くに見える東京多摩地区のビル群の向こうに、運が良ければ筑波や白根山を眺められる。

 京王線百草園駅から距離は僅かだが、急坂続きの曲がりくねった道を上らねばならない。200円の入園料を無人箱に入れて園の入口を入ると、すぐに転がり落ちそうに急な古い石段が一直線に母屋へと続く。両側に咲き乱れる季節の花々に見とれながら上るので、思ったほどの疲労感はないがかなりきつい。

 江戸時代の徳川将軍家ゆかりの老梅が見事な枝振りを広げて出迎えてくれるが、ここまで上ってくるとご褒美のように急に視界が開ける。鬱蒼とした樹木に包まれてひっそりと佇む風情の藁葺き古民家は、それだけで絵葉書になる。季節毎に咲く花の種類が異なる園内は、どちらへ向かっても急坂である。土の香りがする地面を踏みしめて、花を愛でる至福の時間を過ごせるので私は好きだ。

 何よりも自然の儘がいい。人手が入って管理が行き届いた昭和記念公園などは、どうしても好きになれない。自然はそこにあるままが一番の贅沢で、これ見よがしの人工公園は癒やされるどころかただ疲れて帰って来るのみである。いずれも私の自宅からは遠くないが、乗り物に乗らず自分の足でゆっくり歩くのが性に合っているらしい。

 途中に大きくはない古びた神社などがあれば最高で、年輪を刻んだ老木が吹き渡る風の助けを借りて悠久の歴史を語ってくれたりする。苔むした幹を走るように登り降りする忙しい無数の蟻を眺めていると、なぜか彼らと対話できたような気分になって嬉しくなる。私は同じ道をあまり好まない。大抵別の道を探して行き帰りする。

 大小を問わず新しい発見に出会えれば、それはそのまま新しい自分との対面である。プリズムの如く反射した光が幾重にも重なって、昨日の自分を今日の自分にリフレッシュしてくれる。昨日とは違う世界が目の前に広がって、日々新たな自分と出会うことが出来る。散歩の道すがら時に過去に出会い、そして時に未だ見ぬ未来を想像する。

 散歩は目的地へ到達するためではないので、大いに道草を食う。見知らぬ場所へ踏み込んでしまって、帰路が定かでなくなることが屡々あった。そんな時は必ずと言っていいほど新しい出会いがあった。人に限らず森羅万象そのものが出会いである。自分の足でゆっくり歩くことを忘れてしまえば、飛行機や新幹線のように味気ない結果だけの人生になる。

 自分の手足を動かして全身の血管に血液が満ちるように、無心になって歩くのが私は好きだった。去年まで出来ていた散歩が今年は出来ない。他人は大したことではないと笑うだろうが、余命幾ばくも残されていない重病人にはまた一歩死が近づくことだ。たかが散歩でも、それが出来るということがどれほどの幸せであるかに気づこう。