獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

本物の歌と偽物の歌

 外出が出来ない重病人の高齢者は毎日様々な音楽と付き合っている。難聴の自己流リハビリを兼ねているので、漠然と聞き流すのではなく結構真剣に音と向き合っている。70年代には制作者として数多くの音楽現場に関わったので、音に対する習熟度は人並み以上との自負がある。なので如何に巧妙に装飾されていても、本物の音か偽物の音かは一小節を聴けば判別できる。

 何をもって本物と偽物を区別するかは人それぞれの置かれた立場で大きく異なると思うが、早い話が聴くに耐える音か否かである。音楽と一括りにしても全てが快適であるとは限らない。ある程度訓練されて耳が肥えた人間と、大雑把に音が聞こえていればいいとする人間とでは、音の楽しみ方も受け入れ方も全くと言っていいほど違うのである。事程左様に音楽を職業とする人種もまた千差万別である。

 善し悪しは別として成熟した市場経済下では、まず以ての前提が利益になるか否かである。如何に芸術性に優れていようと、経済原則で多くの人たちに支持され受け入れられねば商品価値を持たない。端的に言えば「売れるものが即ち良品」なのである。音楽の中でも分かり易い歌の世界について言えば、過去に日本レコード大賞の権威が地に落ちたピンクレディー騒動があった。関係者の誰しもが予想していた山口百恵の「秋桜」を出し抜いて、芸術性の欠片もない「UFO」が逆転受賞した。

 それまで曲がりなりにも我が国の大衆音楽のベースになっていたテレビの品格に疑問符が付き、業界主導の音楽が国民大衆の支持を失ったのである。フォークやロックのアングラ化に象徴されるように、若者世代が商業主義の偽物音楽にそっぽを向いた。路上や広場でストレートに聴衆に訴えかけた手作りのアマチュア音楽が支持され、それはやがて球場などの大会場を埋め尽くす人波になった。既製音楽に飽き足らない新しい音楽ファンを生み出したのである。

 色々な紆余曲折を経て現在に到った我が国の音楽シーンだが、今や滑稽なほどの逆転現象が日常茶飯事である。往年の井上陽水吉田拓郎などに代表される「テレビを拒否するアーチスト」が出現しても、それでも当時のテレビは一定の品格を有していた。お笑い芸人がゾロゾロ出て来て、局アナ不在の観がある現在とは"似て非なるもの"と言わざるを得ない。芸人に媚びて番組を丸投げしている現在は、言ったら悪いが「芸能プロの下請け機関」で、品格どころか主体性すら見当たらない。

 テレビから本格的音楽番組が消えて久しい。主体性を放棄した挙げ句のなれの果てと言えるが、それを最も象徴しているのがNHKの「うたコン」だろう。まるで幼稚園か保育園のお遊びである。これを音楽と呼ぶには余りにふざけている。派手な衣装に身を包んでゾロゾロ出てくる歌い手は単なる"チンドン屋の行列"で、カラオケに熱狂する低俗ファンと同類だ。歌や音楽を生業として命を賭けるプロの音楽家とは、全くの "似て非なるもの"と言わざるを得ない。

 我が国の風土に根ざししっかりと大地に足を踏ん張れば、その歌声は聴く人の五感を揺さぶるだろう。命を託された歌は直接聴き手の心に届く。芸術は人間の生き様そのものだ。最近耳にした歌に昔懐かしいジェリー藤尾の「マイウェイ」がある。老いたフランク・シナトラ晩年の名曲だが、これまで長く数多くの歌い手に歌い継がれてきた。老いて出なくなった声を振り絞り、聴き手に語りかけるように誇張せず歌うジェリー藤尾が感動的だ。

 老境に到って自らの人生を重ね、溢れ出る想いを抑えながらの歌唱が抜群だ。同じ感動を松山千春の「風雪ながれ旅」でも味わった。津軽のじょんから三味線が泣き叫ぶが如くに響き渡り、思わず落涙した。果てしなく続く長い道と、北の大地に吹きすさぶ地を這う雪。生きることの難しさと厳しさ。魂をわしづかみにするような途切れた歌の隅々に、音楽とは何か歌とは何かを訴えかけてくる。

 吉幾三が「あの頃の青春」を歌ったカバーアルバムもいい。歌に命をかけた男のいぶし銀のような色艶がいい。昔々津軽の寒村の盆踊りで、ひたすら一生懸命に歌い続けた吉幾三の父親を知っている。地元では知らぬ人が居ないほどだが、決して派手に振る舞うことなくアマチュア民謡歌手に徹した人だった。万難を排してどんな障壁があっても歌に生きた人柄が、多くの人に尊敬され慕われた。

 本物の歌と偽物の歌があるが、取り立てて色や形が違っているわけではない。むしろ偽物と思しきものほど、"売るための装飾"が施されて賑々しいのが普通だ。これ見よがしの上手な歌や、綺麗に飾られただけの中身のない歌が今や全盛だ。その歌に感動があろうとなかろうと、数多く"売る"ことで利益を生む市場経済の申し子たちが目白押しだ。そんな時代は余計に本物が目立たない。

 85歳を過ぎてなおも音楽活動を続けるアーチストが居る。言わずと知れたジャズの渡辺貞夫とアルゼンチン・タンゴ出身の歌手菅原洋一である。他にも居るがこのご両名が代表格だろう。年輪だけが歌や音楽を彩るのではない。しかし、艱難辛苦の果てに辿り着いた分厚い年輪は、いかなる派手な装飾や偽装をも跳ね返して余りある。前述のジェリー藤尾松山千春を聴いてみればいい。吉幾三五臓六腑に染み渡る「舟唄」に身を委ねてみればいい。本物と偽物の違いが、一目瞭然ならぬ"一耳瞭然"だろう。

 公共放送NHKが放送する音楽と、余りに違う音楽世界、歌世界があるのを知るだろう。歌や演歌の世界に留まらず、ジャズやクラシックの数多い音源にも接している。長くなったので詳細は別稿に譲るが、一言で言うならば優等生が数多く誕生している印象だ。但し、優秀な成績を取り柄とする優等生の音楽が、聴き手を感動させるかどうかは別物のようである。お行儀良くステージに登場しても、ショーウインドウに綺麗に並ぶ商品の一つですぐに忘れられる。そんな印象を強くしている。

 日本人の特技の一つでもある「律儀さ」は、ややもすると平均的に陥りやすい。ただ綺麗な音を並べただけという印象を拭いないコンサートが聴衆を集めているようだが、聴き手の側もまたお行儀良く並んで、演奏が終われば付和雷同の如くに拍手して演奏会場を後にする。純音楽はかくあるべしという「形式」が重んじられて、肝心の深い芸術性が生み出す感動が忘れられていないか。

 時代と共に森羅万象が変わりゆくのは仕方ないにしても、人間の心の奥底に潜む磨き上げられた「人間愛」の色艶が失われ、いつの間にか消えていくのは堪らなく寂しい気がする。老境ゆえのノスタルジーや感傷と位置づけていいのかどうか、病身高齢者は結構真剣に悩んでいる。