獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

政治の風景

 7年8ヶ月ぶりに衣替えした我が国の政界だが、与野党がほぼ同時に総裁選や代表戦をやるのは偶然とは言え非常に珍しい。その結果が代わり映えのする内容になったか否かはご承知の通りである。一見すると何も代わらない感じが濃厚だが、与党自民党に関しては数々の変化の兆しが見られる。

 前稿「菅新政権発足」でも触れたが、菅義偉新総理が自民党員として極めて異色の存在だ。事の経緯は兎も角として、無派閥の"一匹狼"でいきなり新総裁に選出された前例がない。当初からの無派閥かどうかは別にしても、伝統的に"寄らば大樹の陰"の要素が濃厚な自民党内で、表向き大樹の傘下に加わらないで生き残るのは容易でない。

 数の論理がものを言う与党内で、各派閥間の思惑を読んで実力を行使するには相当の並外れた技量が必要だ。表舞台に登場しない黒子に徹するのは更に至難だ。菅新総理が師と仰いだ梶山静六議員が所属した旧田中派には、"カミソリ"と言われた切れ者後藤田元官房長官が居た。"稀代の切れ者"との評価は衆目の一致するところで、他派閥はその一挙手一投足に神経を尖らせた。

 東大卒の警察官僚だった後藤田元官房長官と菅新総理を単純に比較は出来ないが、並外れた統率力を持つ官房長官であった点は共通する。長い官房長官時代は歴代の官房副長官のみならず、首相補佐官を含む総理府全体が菅官房長官の意向や思惑を注視していた。名実ともに「陰の総理」だった。表舞台で時には"汚れ役"も引き受けた麻生副総理兼財務大臣と共に、安倍前政権には欠かせない"東西両横綱"であった。

 他派閥である中曽根政権を支え、その信頼を得た後藤田元官房長官と不思議にダブるのは、単に鋭く光る眼光の相似だけではない。安倍前総理の突然の辞任表明で降って湧いた自民党総裁選だったが、誰もが出馬を予想していた石破茂元幹事長と岸田文雄政調会長を尻目に、出馬表明する前から主要各派閥の支持を取り付けて独走態勢を築いた手腕は、"切れ味鋭いカミソリ"と恐れられた後藤田元官房長官を彷彿とさせる。

 特定の派閥に所属しない無派閥でも、事実上既製各派閥を支配できるという先例になった。これは更に一歩踏み込めば派閥という既成概念を覆すことにつながり、菅新総理が言う「既得権益」の打破と一致する。踏み込み次第では与党の体質を変えて、結果として我が国の政治風景を大きく変える可能性を秘めている。現段階ではまだ海のものとも山のものとも言えぬが、1年以内に迫っている衆院選次第で「新風」が吹くかも知れない。

 一方の野党は関係者の大騒ぎと裏腹に、何がどう変わったのか国民の目には一向に分からない。数の上で元民主党政権誕生時に匹敵すると言われているが、そう信じて喜んでいる旧民主党系議員が居るとすれば「大馬鹿者」と断ぜざるを得ない。肝心の中身のどこがどう変わったというのか。国民が愛想づかしをしてそっぽを向いた理由が、未だにまだ理解されていないようだ。数だけ揃えればそれで足りると思っている限り、野党新党の明日はない。

 「立憲民主党」という党名も、「国民民主党」という党名も変わらない。挙げ句の果てに所属している議員の大半が、旧民主党で国民にそっぽを向かれた面々である。この中身で、この顔で、国民の誰が支持するというのか。古参野党共産党の小池書記局長が菅新政権を酷評した言葉は、他ならぬ自分たちのことだろう。共産党は10年一昔どころか30年を経ても変わらぬカビが生えた顔が居座っている。他党のことなど言えた義理かと問わねばならない。

 不毛の政治という表現が古くからあるが、我が国の野党を見る限り不毛どころではない。形骸を素通りして最早骸そのものだ。晩秋の河原で冷たい風に吹かれる枯れススキの面持ちである。風に飛ばされ、水に流されて、いつどこで朽ち果てるかを誰も知らない。政治の風景に足跡を留めるとは凡そ考えられない。ゴールなきゲームにしがみついて、"空念仏"を信奉する宗教亡者に等しい。

 スタートしたばかりの菅新政権は、不毛の野党に関わる時間があったらやるべき仕事に精勤すべきだ。現野党の政権など"夢のまた夢"で、その機会など永久に訪れない。若し実現するとしたら、それは多分日本という国家が消滅する時だろう。与党自民党の派閥に変化が起きて現実に即した政策集団に生まれ変われば、政策の競い合いがより信憑性を帯びるだろう。政治の風景とはそのことを指すので、離合集散の繰り返しとカビだらけのイデオロギーを振り回すだけの野党に現実性は見られず、悪いが最早政治の範疇に含まれない。

 良くも悪くも色々様々な可能性を秘めた新政権のスタートである。軽佻浮薄なマスコミが伝える既成概念をなぞるだけのニュースを見ても、政治の風景は見えないし実態は分からない。古色蒼然の"色メガネ"を通してしか政治の風景を見れないマスコミこそ「旧態依然」の象徴で、「前例主義」も「既得権益」もその専売特許だ。その彼らに政治の風景は決して見えない。

 「前例主義」で分かった風の古びた解釈を言われても、彼らマスコミが伝えるニュースはピント外れが著しい。政府の発表に依存し、汗をかかない取材で拾い集めるネタに、どの程度の「真実」が含まれているというのか。政治は日夜蠢いている。その鼓動と動向を確かめ得ずして安直に政治を語るなど、誠に"片腹痛い"と言わざるを得ない。霧と霞でぼやけたニュースのどこに、"政治の風景"が存在するのか教えて貰いたい。

 もう少し丁寧に真実に迫らねば、スタートしたばかりの菅新政権の陣容と力量は見通せないし、陳腐な使い古した言葉でしか捉えられないとしたら、それこそが進歩と対極を成す「前例主義」である。その手の「岩盤既得権」が巣くうマスコミこそ、自分で自分の首を洗い直せと言わねばならない。