獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

好都合と不都合

 世の中は須く表と裏があるように、世の中の事象には好都合と不都合がついて回る。随分昔の話になるが、とある仏教宗派の頂点に立つ高僧が面白いことを言われた。「人は幸運に恵まれると運が良いと言い、不運に出会すと運が悪いと言うが、信仰心のあるなしでその答えが違う」そうである。

 前記は信仰心がない人の場合で、信仰心がある人は「幸運に恵まれるとお陰様でと神仏や他人に感謝し、不運に出会った際は精進が足りないと自らを反省する」と言うのである。言葉としては柔らかいのだが、意味するところは多くの人にとって"片腹痛い"のではないだろうか。禅の神髄をここで議論するつもりはないが、秋の夜長の片時に物事を熟慮する"きっかけ"には十分なり得る。

 信仰とは無闇矢鱈に神仏を崇めることだと誤解している御仁が世に多く存在するが、宗教者の端くれに連なる私の認識は、世の中の"常識とやら"とはかなり異なる。むしろ神仏から距離を置いて、自分自身と対峙するべきだと考えている。血の通った生身の信仰は身近にあっても、易々と手に入る程度の軽いものではないと思っている。

 ここでも本物と偽物の違いに着目せねばならないが、その違いは単なる裏表とは大きく意味を異にする。深く立ち入ると相当数のページを必要とするので遠慮するが、興味がお有りの御仁は臨済禅と曹洞禅の違いをお調べになることをお勧めする。外形の違いではなく、その目指すものを熟慮されたい。ついでに「他力本願」と「自力本願」の違いまでご認識になれば一端の仏教者になれる。

 信仰のあるなしは個人の自由なのでその優劣などはない。一口に信仰心とは言っても千差万別でその中身は多彩極まりないと思うが、ここでのテーマはそのことではない。同じ物事でも各自の認識の違いで、到る結果や結論が大きく違うことを考えたい。宗教の宗教たる所以でもある「他力本願」と「自力本願」の違いは、私たちの日常で起こり得る殆どの物事に共通して現れる。

 人間としての習性で私たちは不運や不都合を他人のせいにしたり、自分の責任ではない外的要因に原因を求める。幸運や好都合は何らの努力もしていなくても自分のせいにして、往々に自分を賞賛したがるものである。それらのことが果たして人間として妥当であろうか否かを問うのが、冒頭の高僧の言葉である。人間としての「徳」を積んだ人の言葉は奥深い意味を有するが、秋の夜長たけなわの季節の一考に値する。

 長い夜を退屈しのぎにスマホに興じても、知性が磨かれることはまずないだろう。そういう自分を自分に問うてみるのも、この季節悪くはないと思うのだが…。