獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

昼下がりの幸福感

 やはり朝から晴れた日の午後は気持ちが良い。暑い夏の午後は余り歓迎されないが、日が短くなった長月の頃ともなると夜の仲秋の名月と共に、とても大切に思えるから不思議である。日差しの傾きが深くなって、我が家の三角形のベランダに陽溜まりが出来る。毎年同じ周期で繰り返されるのだが、老い先短い病人には一入(ひとしお)の想いがある。

 夏の間は敬遠していた熱いほうじ茶を淹れ、6本がパッケージされた小さな本練り羊羹をお盆にのせて、おもむろにベランダへ出る。高層8階は吹き抜ける風が優しく、目の前の森の枝葉を少しだけ揺らしている。深緑から黄色味を帯びた森の木々が、心地良さそうに風と対話している感じがする。

 時々白や黄色の小蝶が飛び交っては、いつの間にか何処かへ消える。熱いほうじ茶を入れたマグカップの上面にうっすらと白い湯気が漂って、秋という季節の到来を告げるかのようだ。ワンタッチで開ける小羊羹のパッケージを開けおもむろに口へ運ぶと、小豆の香りと味にも秋があった。澄んだ青空はどこまでも高く、所々に小さな白い雲があった。

 何気ない日常の何気ない一コマである。生きているというのはこんな小さな日常の中にもある。黄金色した熱いほうじ茶と、小さな安い小羊羹の一切れにも、紛れもない無上の幸福感が満ち溢れている。眼下に望まれる遠くや近くの風景にも、そこに生きる人々の暮らしが息づいている筈だ。その細やかなつながりの彼方にこそ世界が拡がるのである。

 肺が呼吸して心臓が鼓動を刻むことで、人間の命はこの世界に存在し続けている。生きる所業は必ずしも万人に望まれるものではなくても、それでも尚且つ活動を休止することはない。一つの命が終いても、次の命がすぐに産声を上げる。かくして地球上から命が消えることはない。我が身もその一員であることを思いながら空を見上げる。

 夏の熱気と秋の清涼さの中で、人間世界はコロナウイルスに翻弄されている。勝者なき戦いはいつ終わるともなく延々と続くらしい。それでもなお来年には東京オリンピックが開催される。戦うことが賞賛された時代の名残を捨てきれずに、虚しさを感じながら他人が戦うことを見詰め続けるようだ。

 戦うことの熱狂は既に去っている。終わりなき戦いに立ち止まることがなく、姿なき敵と対峙するらしい。過信と驕りの果てに何が待つのか。それは誰も予測できない。予測できない故に戦い続ける連鎖は、人類社会の未来予想図そのものかも知れないと、熱いほうじ茶をすすりながらふと思った。それでも暖かな日差しに恵まれて、十分幸福感に満ちた秋の午後だった。