獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

金子由香利を聴いている

 外出できない病人高齢者は日がな音楽を聴いている。とは言え難聴で片耳が万全ではなく、眼も片方がぐにゃぐにゃに見える。それでも執拗に音楽から離れない生活をしている。他人は正気の沙汰ではないというかも知れない。満足に聞こえない耳で終日ピアノ・ソナタや歌を聴いているのである。

 ベランダから見える目の前の森が日々黄色味を帯び始めると、秋色はまだ希薄だけれど何とはなしにシャンソンが聴きたくなる。それも最近の新しい曲ではなく、エディット・ピアフやイブ・モンタン、シャルル・アズナブールなど往年の調べが良い。古色蒼然の高齢者には矢張り昔の歌が似合うのである。

 高齢者ゆえの特殊な感覚かも知れないが、最近の音楽は原色で色鮮やかなものが多いように感じる。特に歌はその傾向が顕著のようで、派手な衣装や振り付けがそう印象づけるのかも知れない。だけど歌そのものの印象は薄く、最後まで聴くに耐える楽曲が殆どない。無理やり複雑な音使いやコード進行で目立たそうとの思惑ばかり耳に付く。

 人々の暮らしが良くなり生活の臭いを歌い上げる歌曲が少なくなった。愛や恋を誇張した"売れる歌"は増えた印象だが、思わず胸が熱くなる歌に出会うことはまずない。日々の暮らしの中で生きることを問い、やりきれない人間感情を吐き出す如き歌には滅多に出会わない。小綺麗に飾られた歌ばかり聴かされても、後に残るのは生理的嫌悪感だけである。

 シャンソンは母国フランスのイメージと重なり、不思議に詩的でロマンチックだ。フランス語特有の響きがそれを余計際立たせている趣があるが、浅学の身には言葉そのものの理解が覚束ない。日本人歌手がカバーしたものを多く聴いたが、何故か妙に癖があって馴染めなかった。高英男、芦野弘、越路吹雪石井好子加藤登紀子から最近のクミコまで、どれをとっても個性&癖が強すぎて好きになれなかった。

 そんなシャンソン界で唯一例外だったのが金子由香利で、語りかけるように、囁くように歌う妙な色づけのない歌唱に惹かれた。相反するドラマチックな表現も兼ね備えて、類い稀な実力を誇示しない控えめな立ち居振る舞いにも好感が持てた。他のシャンソン歌手が世に出ようと形振り構わず歌謡曲に飛びつくのを横目に見て、あくまで愛するシャンソンから身じろぎもしない姿勢が気に入っていた。

 録音技術が必ずしも万全ではなかったLP時代は、金子由香利に有利ではなかった。抑揚が大きいその歌唱がレコードで聴くファンには物足りない印象を与えて、シャンソンの女王と讃えられた越路吹雪と対照を成した。古いLPやCDは処分して残っていないが、iチューンでリマスターされた金子由香利と出会い、久しぶりに懐かしい歌声に接した。

 鳥肌立つ思いとはこのことを言うのだろうと感じさせる感動に、久々に出会って嬉しかった。それだけでも生きていて良かったと実感させるから人生捨てたものではない。秋の日は何故か不思議にシャンソンが似合う。色づき始めた遠くの銀杏並木に目をやり、一段と黄色味を増した目の前の森を眺めながら聴き入っている。

 難聴の耳でも懸命に聴こうと努力すれば金子由香利が聴ける。パブロ・カザルスのチェロが聞こえるし、アンドレ・クリュイタンスの静謐な響きが聴けるフォーレの「レクイエム」にだって親しめる。新旧の録音技術の違いはあるが、それでもそれを補う想像力が働き感動に浸れる。旧盤のリニューアルは功罪相半ばするが、妙に音質が整ったデジタル技術を手放しで礼賛する気にはならない。それにしても最近の歌は、歌と呼ぶのを憚るような"薄っぺら"な印象のものが矢鱈に多い。

 人間の幸せは各種あると思うが、心に響く、心に残る歌曲との出会いもその一つだろう。売れて利益を生む楽曲が増えて、そのための手段化した音楽ばかり増えても、そんな時代が"幸せ"と感じる人も多分居るのだろう。人それぞれ好き嫌いの領域とは言え矢張り良いものは良いし、つまらぬものはつまらないのである。晴れた秋の一日、我が家は久々に金子由香利の歌声に包まれた。率直に"幸せ"を実感した。