獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

小田純平を聴いている

 外出が困難な病人高齢者は情報が乏しい。長く親しんだ旧来の生活パターンを替えるのが億劫で、知らぬ間に"時代遅れ"に陥っている場合が多いようだ。それだけ世の中との接点が限定されて、知り得た狭い視野で物事を見て判断している。最近そのことを再認識させられる事柄に次々遭遇している。

 若くはない歌い手の小田純平もその一つで、無理矢理視聴料を支払わされている公共放送NHKの歌番組には決して登場しないタイプの歌い手だ。お断りするが私流の判断で「歌手」と「歌い手」を区別している。良くも悪くも公共放送NHKの歌番組に登場する"ど派手"で、他人が作った歌を"なぞる"だけの面々が「歌手」で、自分が作ったオリジナル曲を歌唱する人を「歌い手」と呼んでいる。

 その区別の正当性の是非は判らないがその違いは明瞭で、敢えて言えば他人に雇われて指示通りに働くサラリーマンと、自分で事業を興してオリジナルな仕事に就いている起業家の違いだと、私は勝手に思っている。一つの基準を挙げれば「歌手」は"商品性"が高く、如何に多くの人に受け入れられて"利益"を生み出すかが生命線だ。存在意義などなくても良い。

 それに引き換え「歌い手」には"芸術性"や"共感"が求められる。聴き手に媚びず「ゴーイング・マイウェイ派」が多い。それぞれの人間性や人生観が異なるので、同じ「歌」に生きる人間でも"一束一絡げ"には出来ないと私は思っている。その善し悪しや好き嫌いは人それぞれだろうが、どちらが優れているとかの話ではないので誤解しないで貰いたい。

 小田純平を最近まで私は知らなかった。冒頭に挙げた情報不足の成せる精だが、年金暮らしの病人高齢者が普段接する音楽情報は、良くも悪くもNHKテレビの音楽番組程度だ。視聴料を強制徴収する公共放送NHKだから、是が非でも国民に見せなければならない番組を放送していると鵜呑みにして、漫然とチャンネルを合わせていた。

 ところが近年そのNHKが、無理な人為的作為が目立つようになって、「これは変だ」と気づいた。特に歌番組の劣化は目を覆いたくなるほどで、出演するメンバーがほぼ固定化され、"芸能プロ丸投げ路線"が否応なく鼻につく。「何が公共性だ!!」との反感が強まって、他の音楽ソースを物色しアップルのiチューンで小田純平に出会った。

 新旧数多くの音源に接してNHKの欺瞞性が明瞭になった。低俗路線を押しつける公共放送に疑問が拡がって反感は益々増大した。そんな折に出会った小田純平はズシンと腹に沁みた。「これが歌だ!!」と合点した。判る人には判るだろうが、無差別に大衆受けする種類の歌ではない。NHKのあからさまな"芸能プロ丸投げ路線"とは、多分肌合いが違うだろう。

 小田純平を聴いた人はご存じと思うが、一言で言えば"おじさんの歌"である。時代請けする煌びやかさなど微塵もない。ハイトーンの若い歌手全盛のこの時代に、無愛想な図太い声で訥々と歌い上げる歌唱は"時代遅れ"が甚だしい。お世辞にも"格好良い"とは言えないご面相と身なりで、「知る人ぞ知る」感じの独自路線を歩んでいるらしい。

 6枚の小田純平オリジナルCDをダウンロードして聴き始めたら、すぐに80歳の老妻が「この人なんて言うの?」と訊いてきた。青春が遙かに遠のいた老いた彼女の耳に、聞き慣れない、然も琴線を揺さぶる歌が一際響いたようだ。時代の風潮に押し流されず、善し悪しを聴き分ける感性が老妻に残っていたのが、我が事のように無性に嬉しかった。

 「この人のCDを全部買いたい」という老妻を説得し、私のipodブルートゥースでミニコンポに接続され家中に小田純平を響かせている。金子由香利のシャンソンと共に、色づきを増した目の前の森に目をやりながら、どこか懐かしい小田純平を聴いている。時折曲は杉本眞人に変わったりするが、日暮れ間近まで鳴り続けている。

 吉幾三のカバーアルバムも愛聴盤になり、ブラームスシベリウスのシンフォニーと並んで2DKの我が家に響いている。音楽って何だろう、歌って何だろう、考えるとはなしにそんなことを考え、思っている。心の琴線に触れて長く残る歌がある一方で、何ら心に響かず鳴り止むと同時に消え去る歌や音楽が数多くある。

 人生を彩る音があるとしたら何ゆえであろうか。心地よい音が忘れ難い音とは限らない。現代は煌びやかで華麗がキーワードのようだが、それらの中に明日まで、来月・来年まで残る音がどれほどあろうか。忘れ難い音の多寡が人間の幸せに直結すると思うのは、高齢者だけのノスタルジーなのだろうか。小田純平の歌はそんな問いを秘めて、今日も我が家に鳴り響いている。