獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

来る日と去る日

 "光陰矢の如し"とは使い古された表現だが、老い先が秒読み段階に入りつつある高齢者には身に沁みる言葉の一つだ。何もせずとも今日一日が終わり、同様に何もせずとも明日はやって来る。毎度お馴染みの同じ事の繰り返しのようであり、その実同じ日は決してない。同じだと思うのは各自の勝手な思い込みか、それとも感受性が活動停止して不感症になっているのかのどちらかだ。

 そのいずれであっても幸運だとは凡そ言い難いが、それが幸せだと感じている人もまた居るから不思議である。「人それぞれ」とは誠に都合の良い詭弁の一つだ。物事は須く当事者と他人とで受け取る"金額"が異なる。"金額"とはいうもののこの場合は数字ではなく、実際の数字以上に大きく異なる「結果」である。個人的相違と感覚的相違が非常に大きい。

 一日をどう捉えてどう解釈するかも同じように、捉えようとする解釈次第で大きく異なるだろう。アメリカのトランプ大統領を見習えば、自分の意に添わないものはすべて公然と否定する。こうまで利己主義が徹底されていれば、通常は「バカ」と呼ばれて軽蔑されるのが普通だが、トランプはどうしてか現職のアメリカ大統領である。

 どうしてこんな人物がアメリカ大統領に当選したのか不可思議千万だが、フィクションの世界ならともかく、紛れもないノンフィクションであるから面白い。事程左様に人間世界は本来あり得ないことが時々現実になって現れる。理窟の世界はどこまで議論を尽くしても、所詮現実世界に追いつけない。それゆえに人間社会は面白いのである。

 一日が24時間だなどというのは理窟で、機械である時計は定められた通りに動くが、世の中全体がその通りになっているか否かは必ずしも定かではない。その方程式を当て嵌めれば一日という単位も各種各様で、世界が大きくもなれば小さくもなる。各自の世界も多種多彩になる。人生もまた然りで、無理に自分で窮屈にする必要はないのである。

 短い"今日"が終わって、長い"明日"が訪れるか、或いはその逆で長く尾を引く"今日"が終わって、短く早い"明日"になるかは個人差だ。好事に恵まれた人は幸運だと喜び、悪事に見舞われた人は未練が残って容易に納得できない。「運不運」と人は簡単に口にするが、実際には「運不運」の実態などない。偶然を引き寄せて、都合良く解釈しているだけだ。

 来る日は"非現実"で未だ見ぬ故に様々想像できる。去る日は実相が明らかで想像の入り込む隙間がない。良くも悪くも現実を否定できないので、結果になるのを待つ他ないのである。そのどちらに希望が見い出せるかとなると、圧倒的に「来たるべき明日」に軍配が上がる。自分次第で一日は大きくなったり、小さくなったりする。長くなったり、短くもなるのだが、そう思えば気が楽になる。

 自分の都合次第で感情的になったり、客観的になったりするのだが、当事者になれば冷静に自分を判断するのが難しくなる。都合を引き算すれば事実と現実がお手々をつないで姿を現す。それを色づけせずに受け止めれば、「真実」が掛け値なしに身に迫る。好都合であろうが、不都合であろうが、「真実」は揺るがない。揺るがぬ故に否定できない。

 どんなに長い人生も、どんなに短い人生も、一日を素通りは出来ない。複雑に構成され、複雑に積み上げられた一日で成り立っている。だから「今日」を否定した「明日」はないのである。「去る日と来る日」が人生そのものなのだが、さて明日はどんな「来る日」になるだろうか。