獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

仏像の微笑み(ほほえみ)

 私のブログには「微笑仏」が張り付いている。好むと好まざるとに関わらず眼にせねばならない。画像に使用しているのは中国の古代発掘仏である。制作された年代については研究者によって見解が諸説ある。申し訳ないが私はそれらの見解を殆ど重用しない。間違いがあっても自分なりの研究結果を寺院関係者に公表している。

 仏教に関心があろうとなかろうと、包み込むような柔らかい微笑を嫌いな人は少なかろう。現代の実生活でいつの間にか見失い、忘れてしまった「微笑」は人を引き寄せる。それが何故かは各個人がそれぞれの心に問えばいいと思うが、深層では人の生き死に関わっている。

 ここでも申し訳ないがと前置きせねばならないが、私は現代仏に関心がない。明治時代以降に造られた仏像には関心がないのである。「仏像や仏画の話」などにも書いたと思うが、私自身の認識では明治以前と以後の仏像は別物だと思っている。数多くの鑑定や評価の依頼を受けたが、悪いが明治以降の仏像はどんな有名作家の作品であろうと、私の評価は0円である。

 何ゆえ世間の古美術常識や相場を無視・逸脱するのかと問われそうだが、答えは至って単純明快である。明治という時代の前と後では、仏教に対する人の心が大きく変容した。自ら俗塵を払い身を清めて敬虔に御仏と接した日本人は、明治の文明開化で新しい西洋文明に接し受け入れた。「古い衣装は脱ぎ捨てて、新しい衣装を身につけよう」との気風が、時代を覆い尽くしたのである。

 仏教は古い文化を代表するものと見做され、「祈り」の対象であった仏像は「美しさ」を競う美術品になり、高価な値段で取引される"商品"になった。長い仏教の歴史に磨き上げられた作法や様式を知らない人たちが、競って"商品"としての仏像を造り始めたのだ。仏像の真価である「祈り」が消え、見てくれの華麗さを競う"商品"が大量生産されるのである。

 痩せても枯れても仏教者の端くれなので、"商品"の仏像を評価賛美するつもりは更々ない。ゆえに明治以降の仏像に"祈りの造形"を見出すのは難しい。古代仏の「微笑」は造形ではない。艱難辛苦を乗り越えた仏師が、自らの命を削って産み落とした「心」である。それゆえに有名・無名で判断される"商品"や美術品とは、比べるべくもない"違い"がそこにある。いつまでも見つめていたい衝動は、あなた自身の心の叫びだ。

 この「微笑仏」が目にとまったら、あなたの感性は鈍化していない証明になろう。