獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

蓼食う虫の話

 古来「蓼食う虫も好き好き」と言われる。人間の趣味・嗜好は際限がなく、俗に言う「ゲテモノ好き」の類いが広く世に蔓延している。自分一人で悦に入っている間はいいとして、厄介なことに好きが高じると見境なく他人に自慢したり、勧めたがるので"はた迷惑"のそしりを受ける羽目になる。

 毎度お馴染みの古典落語の世界だが、最近はどういうわけかそんな落語にお目やお耳に懸かる機会が滅法減った。テレビをつければ民放ばかりか公共放送NHKまで、矢鱈にお笑い芸人と称する人種が次々出てくる。だけど不思議なことにそれらのお笑い芸人の本業と思しき古典芸能の寄席番組は、視聴料を強制徴収しているNHKにすらない。

 お笑い芸人が本業の"技"を披露せず、訳が分からない知識人や教養人に成りすましている図が昨今の「現代風情」らしい。悪ふざけのバラエティー番組ならいざ知らず、コロナ関連の医療情報番組や世界情勢の分析番組まで、馴染みがない若いお笑い芸人が登場して臆面もなく最もらしい理屈を並べるのである。

 そんな風情が日常化して久しいが、そんな光景に違和感を感じていては今の時代は生きられないらしい。そんな光景がむしろ当たり前で、変だと感じる人間は異端者であるらしい。幸か不幸か長生きしてしまった高齢者は戸惑うことばかりだが、そんな高齢者は早々に退場すべきとばかりに終末産業が派手な宣伝攻勢を競っている。

 テレビの世界に留まらず、社会のあらゆる分野に変化が起きている。変化を変化と感じなくなることが現代人の必須条件らしく、誰も気に止めずに日常生活が流れている。「時代だから」という簡単な説明で事足りる風潮が一般化して、世の規範や基軸を考える人を見かけなくなった。"新しい"とか、"古い"とかで、簡単に見過ごされている。

 政府の施策に注目する国民が居なくなって、内閣総理大臣が旗を振っても国民は動じない。少しオーバーに言えば、政府の存在意義をどれほどの国民が感じているだろうか。更には民主主義を信じている国民も同様に、到って希薄な少数派だろう。法制度もテレビのお笑い芸人と同程度で、一笑に付す以外の存在価値を見出せない。

 そんな時代を生きる私たちは「蓼食う虫」を笑えない。口にしただけで吐き出すような醜悪な味でも、広いこの世界にはそれを好む人種が居る。国家体制がどうであれ、統治制度がどうであれ、そこにどれだけ奇妙な支配者が居座ろうが、「蓼食う虫」の自由である。自分を状況に合わせればそれなりに快適な生活が得られる。

 現代生活は予め「価値」がそこに存在するのではなく、各自が各々の「価値」を創造する時代のようだ。自由という名の"身勝手"が社会に容認されて、誰憚ることなく「正義」に化ける。多くの国民が挙ってその「正義」の仮面を装着すれば、昨日までの正義は抵抗することなく退散する。その繰り返しと連鎖の中で私たちは日々を生きている。

 世の中も私たち自身も定かな基軸を失った。漂うままに「蓼」さえも口にしている。「蓼」が妙味か醜悪かは実際に口へ入れてみないと判らない。テレビへ登場するお笑い芸人が、何ら見るべき芸や聴くべき芸がないとしても、"テレビ権力"が絶大に支持すればそれが現代の「面白さ」になる。かくて"シラけたお笑い"が全国津々浦々に蔓延する。

 コロナ渦が留まることを知らない。誰もが当事者であって、誰もが当事者でないような、誠に奇妙な感染症が世界を席巻している。事あるごとに「国民の生命と暮らしを守る」と強調する我が国政府は、その言葉と裏腹な施策を繰り出して感染を拡大させた。誰の目にも明らかなのに、未だ誰一人その責任を口にする政府関係者は居ない。

 国全体が「蓼食う虫」になって、銘々勝手に自己流の正義で武装している。どこを見渡してみても「善人」ばかりで「悪人」が居ない。須く世の出来事は「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」ようで、テレビのお笑い芸人同様にその場を笑って誤魔化せば万事「お後がよろしいようで」ある。「蓼食う虫」が異常繁殖した後は一体どんな時代になるのだろうか。