獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

テレビの道理

 近頃は「道理」という言葉を耳にしなくなった。混迷を深める現代社会では、訳知り顔で「道理」を説くと笑われることさえ珍しくない。事程左様に訳が分からない世の中になった。殊更誰がどうしたという訳ではないのだが、いつの間にか「何が何して何とやら」の時代になっている。

 目や耳に馴染みが深い歌や演芸も大きく様変わりしている。テレビが世に登場して以来どこの家庭でも"自称インテリ" が増え、政治・経済から芸能人のゴシップ動向にまで精通した人が矢鱈に増えた。幼稚園児から90歳の高齢者まで、世を挙げてスポーツ新聞の記者にでもなったような趣すらある。

 世の中で起こっている大小様々な事柄を、嚙み砕いて中身を吟味せずに面白おかしく話題にするのである。それらの中にはニュースソース自体が怪しいものが数多く含まれるが、そんなことにはお構いなしに適当に色づけして面白く仕立てるのである。その手の手法を職業とする漫才師やタレントが、今や民放テレビのみならず公共放送NHKにも百花繚乱である。

 国民から視聴料を強制徴収している事実上の国営放送が大々的に展開しているのだから、嘘やデタラメではないと信じる善良な国民がこぞってその手法を真似ている。何故か不思議に本職の漫才を披露しない漫才コンビや、落語を忘れたかのように語らない落語家が日夜この国のテレビを占拠している。歓迎しないのは「非国民」であるかのようだ。

 物事を茶化して笑い飛ばす芸は、それはそれでユニークな存在感があり歓迎もされるが、それには物事の本質を嚙み砕いて分析し、独自の味付けをせねばならない。口から出任せの陳腐なダジャレとは一線を画すのである。演芸といえども本物と偽物の区別はハッキリしている。ところが現代はその区別がつかない人が増えて、余計に陳腐な偽物芸人を大量に生み出している。

 「無理が通れば道理が引っ込む」とは古来言い古されてきた。現代社会は道理の基軸それ自体が怪しくなって、かなり重要な間違いを犯しても誰も責任を感じず、かつ責任を取らないのが当たり前になっている。テレビに登場するお笑い芸人の口から出任せダジャレが現実になって先行し、世の中の制度や法などの道理がヨタヨタと後追いしている様相だ。

 実際に世の中を動かしているのが誰かを考えれば、菅総理でもなく各大臣でもない連日テレビに登場するお笑い芸人やタレントであるのが判る。その動向が広く国民に周知され、その意向を汲んで選挙の際の投票行動になる。時の内閣総理大臣の名前は書けなくても、テレビで目にする芸人やタレント名は暗記してすらすら書けるのである。

 派手に現金をバラまく議員が法務大臣に治まっても、誰一人国民から異論が出ない"大層ご立派"な法治国家である。「無理」が満面の笑顔で、「道理」はしおれた枯れ花だ。そんな世を官・民足並みを揃えてテレビが牽引している。"テレビ様"のお通りには全国民が道を譲らねばならない面持ちすらある。先導するのは紛れもないお笑い芸人やタレントである。

 「当たり前」とか「普通」とかは、曲がりなりにも社会が基軸に沿って動いている時のことで、その基軸が曖昧だったり縦しんば失われているとしたら"何をか況んや"である。世界に目を転じても、世界の社会規範を担ってきた趣のアメリカ社会で分断が目につく。民主主義がセピア色に変色し始めてから時間が経ち、名ばかりで権力者を手助けする共産主義と共に迷走を繰り返すのみだ。

 新しい社会の基軸が簡単には手に入らない現代社会で、刹那の笑いにしがみついて憂さを晴らしたとて幸福感を得るのは難しい。"テレビ様"以上に絶大な影響力を保持している"コロナ様"に逆らえない人間社会は、「道理」を放り出してどこへ向かうのだろうか。今日もまたお笑い芸人やタレントが整列する国営テレビ(?)で、満面の"作り笑顔"と陳腐なダジャレに向き合わねばならないのだろうか。