獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

高齢者の敬老の日

 本日は「敬老の日」だそうな。齢80の高齢者の一人として、どこをどう無理しても「長生きしておめでとう」という言葉は出てこない。社会通念は時代と共に変わるべきで、現実が先行してとうの昔に長生きが目出度い時代は過去形になった。にも関わらず未だ国民の祝日とは、ユーモアなのか、それとも世の高齢者に対する強烈な"嫌がらせ"なのか、その解釈と判断に迷わざるを得ない。

 政府の肝いりで推し進められている「GoToキャンペーン」は関係業界の悲願でもあり、国民各層にカネを使わせることで窮地に立つ店を救済しようと形振り構わず実施されている。その流儀を借用すれば、高齢者も長生きして消費に貢献すれば社会に役立つという理屈が成り立つが、逆の解釈をすれば膨大な社会保障予算を必要とする「厄介者」である冷静な現実が見える。お世辞にも「おめでとう」という言葉には結びつかない。

 長生きすることが社会の役に立ったのは戦時中のことで、"生めや増やせや"と無条件に人口の増加が奨励された。その根拠は当時の軍部の身勝手な理屈で、人間生活の真実よりも虚偽の戦勝理論が重んじられた。8月15日の終戦を境に全ての物事の価値観が逆転した時代である。その当時の社会通念が現代に生き残っているとは思わないが、超高齢化社会の今「長生きしておめでとう」と真実思っている人はほぼ居まい。

 100歳を遙かに超えてギネス記録を更新し続けているというニュースが伝えられているが、当人の元気な様子をテレビで見て素直に祝福しようと思う人が何人居るだろうか。表向きは兎も角として、社会保障費を貪って生きていることを言祝ぐ気にはなれまい。況してや社会経済が空前の危機的状況下である。本音を包み隠さず言えば、「早く死んで下さい」と言わざるを得ないのである。

 高齢者が長生きする条件はどれだけ家族や社会に迷惑をかけずに生きられるかで、その条件が極度に悪化して多くを家族や他人に依存しなければならなくなったら、「自己責任」で身仕舞いを考えねばならない。「姥捨て山」がない現代では、人間の尊厳に基づいて個人が「自己責任」を全うすべきである。認知症その他で自己判断が妨げられる状況になったら、その時は人間性とか尊厳は手っ取り早く最早死滅していると考えるべきだろう。

 誰もが遅かれ早かれ直面する厳粛な事実なのに、何故か不思議に誰もその真実を語ろうとはしない。曖昧模糊とした霞の中に温存して、"うやむや"のまま無為に時間稼ぎしているとしか思えないのが現実だ。私のように早くに寺院への納骨料を家内分を含めて、前払いして済ませている高齢者は少数派だろう。生きるのと同様に、死ぬこともまた「自己責任」なのである。その両方が全うされて始めて「人間の尊厳」を云々することができると私は思っている。

 口先だけの言葉は所詮詭弁だ。現代における「敬老の日」は、あらゆる番組に陳腐な芸人が出てくる公共放送NHK同様に、笑うに笑えぬの"駄じゃれ"と同列になる。バカバカしい「おめでとう」は早々にやめにして、折角の連休だから「GoToキャンペーン」を精々楽しめば良いと高齢者の一人は思っている。その道理などという面倒な理屈は、後でゆっくり辻褄を合わせればいい。めでたくない「敬老の日」も、それなら少しは救われるのではないか。