獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

気づきの美学(2)

 世の中は色々なことがあって色々な人が生きているから楽しいのだが、自分のことばかりではなく他人事でも身近で起きることには無関心でいられない。特に他人事はどうでも良いのだが、思わず笑いたくなったり腹立たしい思いをすることが度々ある。ことの大小を問わずどうしてそうなるのか理解に苦しむが、当の本人は大真面目であったりするから実に面白い。

 物事を敏感に感じる人がいる反面、不思議なくらい一切の物事に鈍感な人もいる。感性が違うと言ってしまえばそれまでだが、その感性や心模様は目に見えないので意外に厄介だ。洋服のように色や形が分かればそれなりに対応できるのだが、外から見通すことが出来ないので対処するのに戸惑う。

 特に問題なのが鈍感タイプで、高齢化が現実になった現代社会では必ずしも少数派とは言えなくなっている。加齢による感覚の鈍化は本人が気づきにくいので、思わぬ悲劇を招いているのに本人だけが涼しい顔をしているケースが多い。失礼だが生半可な知性や教養を備えていればいるほど余計深刻化するから困りものだ。

 ほんのちょっとしたことに気づかなくなるのは、大抵は笑い過ごして済むのだが、中には本人だけがご満悦で周りのみんなが迷惑するケースが多々ある。少し前の時代までは「老人呆け」と認識されて、大半は笑い話の種になった。最近は「認知症」という名前がつく病気の一つに成長した。笑うに笑えぬ深刻な社会現象になっているのである。

 人類は何ゆえ万物の霊長なのかを語るまでもなく、人間のみに備わった様々な能力と機能を持つ。難しい理屈を抜きに考えると、その最たる特徴は考えたり感じたりすることだろう。「気づき」はその原初能力である。それが失われれば人間が人間であること自体が怪しくなる。誠に由々しき事態なのであるが、鈍感タイプの人は自身の人間的尊厳にも気づいていない。

 平易な表現をすれば「箸にも棒にもかからない」から、バケツで汲み取る以外方法がない。周りのみんなはそう思っているのに本人だけが「気づかない」お目出度い珍事である。この種のタイプの人ほど世に言う頑固者が多いので、下手に関わると思わぬ"やけど"を負う。「触らぬ神に祟りなし」と敬遠される所以だ。

 気づくか気づかないかの少しの違いが、時には民族間の対立を生んできな臭い紛争にまで発展する。とても笑い話で済まされる程度の話ではないのである。家庭内や職場内から友人関係まで幅広く影響をもたらすのに、何となく見過ごされている場合が殆どだろう。薬をつける役目を誰かが負わなければ、「鈍感病」は人間社会からなくならない。

 コロナ・ウイルスのように感染はしないが、それだけに軽視されて放置されている。自由の意味が勘違いされて、「それぞれがそれぞれでいい」とか「個性の尊重」だとかの理屈に化けている。理由や理屈は"目糞鼻糞"にもつくのである。理屈をつけて物事を正当化する習性を人間社会は持つが、それを繰り返しても物事の本質は一向に改善されないことにまず「気づく」べきだろう。