獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

丁寧の現代性

 長い9連休の正月休みも今日で終わり、明日からは日本社会が一斉に動き出す。とは言っても、年金暮らしの高齢者は相変わらず「毎日が日曜日」である。それでも人間の宿命なのか、世の中の動きに吊られて何やら慌ただしい気分になるから、不思議で面白い。ものの見方や感じ方は人それぞれ違うが、現役世代の人たちが頑張って社会保険料を納付してくれるお陰で、こうして呑気に過ごせていることは間違いない。

 誰かが誰かの世話になって命をつないでいるのに、人は勝手なもので多くの人はそう思っていないだろう。皆が自分や家族の幸せは自分たちの努力だと思うし、不幸や不都合は他人や世の中のせいにする。ごく当たり前のことが何故か見えず、視界を覆っている"色眼鏡"に何故か気づかない。世に蔓延している"サングラス"は、使い始める時は色がつくのが分かるが、使っている間に色があることを忘れる。

 当たり前の簡単なことが何やら小難しい理屈を生み、その理屈を堂々巡りしている内に何が何だか分からなくなる。「丁寧」という言葉が濫用されて、"訳が分からなくなる"のを一層助長する。この悲喜劇的現象は、個人の段階から国家の運営に関わる政治の場面まで、あらゆるシーンでお馴染みである。"豊かで便利"な現代社会が産み落とした「高学歴社会」は、結果として日本語や日本文化を知らない"新インテリ層"を量産した。

 日本文化の根幹を成す「丁寧」は、適度を欠いた濫用で「無礼」に変容する。現代社会はその「無礼」が溢れている。礼を欠くばかりか"人を馬鹿にする"「無礼」が氾濫しているのに多くの人が気づかず、いつの間にかその「無礼」が常識的マナーとされている。「丁寧」とは相手に対する気遣いと敬意であった筈が、見え透いた嘘やお世辞に化けている。代表例は国会質疑だが、今や日本社会のあらゆる場面にまで浸透した。

 敬語の使い方を知らず、敬語の上に更に敬語を重ねる「落語まがい」の会話が珍しくない。新旧のインテリ層が本来の知性から遠くなった現代は、古い"丁稚制度"で育成された芸人が「時代の知性」の担い手になっている。"インテリげんなり"という古い言葉が妙に現実感を持つ時代だ。「バカ丁寧」という言葉も同様である。嘘と真実が逆転して、正義と悪も引っ繰り返った世の中だから、「バカ丁寧」が常識になっても不思議ではないのかも知れない。

 新しい年が明けても「おせち」や「年賀状」は老人の楽しみで、若い世代はスマホSNSで遊ぶのに忙しい。労せずして簡単に物事が済む時代だから、言葉や物事を吟味する必要がないのだろう。商業主義の功罪が全国津々浦々まで浸透して、近未来に何が待っているのかに思慮することなく、目前の"消費活動"に夢中である。短文化された社会で、暮らしや幸せの形も"必要最小限"になったようだ。こんな時代に「丁寧」に拘るのは、「毎日が日曜日」の高齢者だけであろう。