獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

「高齢者だって辛いよ」

 「男は辛いよ」は渥美清が演じた有名なシリーズ映画だが、その主人公"フーテンの寅さん"ならずとも、今や巷に溢れている高齢者も更に辛いのだ。格好わるく嘆くのはよそうと思っていたが、今更意地を張っても誰も認めてくれそうもないから本音を吐露する羽目になった。男ばかりでなく、爺さんも婆さんも仲良く辛いのだ。

 2種の癌手術のため3度の入退院を繰り返すした揚げ句、やむを得ず部分切除に留めた左肺に穴あきが生じる「気胸」の"おまけ"までつく「失血大サービス」で、予想以上の長期入院になった。その後遺症とも言うべき各種の症状が退院後次々に姿を現して、とても退屈するどころではない大盛況と相成った。

 現在は東西南北どちらを向いても新型コロナウイルスの感染拡大が沸騰した如き風情だが、既往症の重症患者が病院から追い出されそうな気配すらある。どうせ老い先長くはないのだから、どこの病院でどの程度の治療を実施しても同じだろうとは思うが、そう物分かり良く納得する患者や家族ばかりではないと思うから、全てのツケを背負わされる医療現場は気の毒を通り越して"哀切"の気配が濃厚だ。

 その医療現場と否応なく接せざるを得ない重症高齢者は、一体誰が救ってくれるのだろうか。菅総理を始め関係する諸大臣が、そんな医療現場や高齢者施設・家庭に1度でも足を運んだニュースがない。毎日無表情な顔でテレビのニュースに登場する面々に、悪いがとても「国民の生命と財産を守る」とは到底思えない。

 事実や実態を知ることなく、口先で体裁の良い言葉を並べるだけなら誰にでも出来る。少なくとも「生きている人間に語りかける言葉」なら、流れる血の熱さと情熱が伝わる筈で、無味乾燥な言葉の羅列による"政治ゲーム"など誰一人国民は望んでいない。むしろ例え僅かなりとも人間としての良心があるならば、即刻退陣して適任者にバトンタッチすべきだと思うが、その声は永遠に届かないだろう。

 この国で政治を職業としている皆さんに申し上げたい。多くの国民は貴方方に多くを期待していない。ただ当たり前のことを当たり前に、普通のことを普通に、誠実に実行して欲しいと願っている。これまでの経緯と実績から、決して貴方方を信頼しては居ない。何故ならばこれまで1度たりとも、国民の期待に誠実に向き合ったことがお有りだろうか。

 失意と絶望に近い国民感情は未曾有の高齢社会の現実化で、「物言わぬ沸騰したマグマ」に変わった。多くの高齢者が凶器を手にして貴方方の背後に居る。蛮行を辞さず死を恐れることなく「偽善」に立ち向かおうとしている。殆どの政治家諸氏は「燃え尽きる前の焚き火の輝き」に気づいていないだろう。

 人は誰しも自ら好んで老いるのではない。生命体を有する万物共通の宿命で終末を迎えるのだ。死を目前にして人間は何を考えるか。単純化すればこの世に存在すべきものと、存在してはならぬものとに区別される。その存在自体を否定しなければならないのは「虚偽」である。「虚言」 に彩られた政治ゲームなど、本来この世に存在すべきでないものの代表格だ。

 いくら誠を尽くして生きようと努力しても、人間社会は無常な結末へといつしか導かれる。せめて死ぬ間際くらいは自分の意志を貫きたいと私は思っている。政治に期待するものなどないが、かと言って生存する限り一概に否定するだけでは能がない。肯定できなくたって抵抗する手段は一つではない。

 巷に彷徨い、やがて野山や海にも行き場のない高齢者が溢れるかも知れない。そうなって不思議ではない政治を選択したのは誰あろう私たち国民だ。然も現在その現実感が増す段階に到っても、国民は自らが選択を誤ったとは考えないだろう。例え真実がどうであろうと、慈善者の如くに装って"善良"に死にたいのである。"善い人"で在りたいのである。

 コロナウイルスの感染拡大が更に長期化しても「明日は我が身と」誰もが思わない。既往症の重症高齢者でさえ、そう自覚しているのは一部だろう。他人事のような"政治ゲーム"が連日展開されている中で、真実の重みを伴っている医療現場の声までもが連動して軽く聞き流されている。

 高齢者が溢れるこの時代を好んで生まれてきたわけではない。なのに"理不尽"とも思える現実に直面しても、尚も追い打ちをかけて重症高齢者を受け入れる病院がなくても、「こんな時代だから」と高齢者は耐えている。それが当たり前になって、誰も不自然だと感じなくなる日が目前だ。国民に窮乏を求める一方で、自分たちは好き勝手に夜の飲食に酔い痴れるのが「常識」の政治だけが、高齢者を食い物して「焼け太り」している。

小便顛末記

 高齢者は身体機能全般が衰退しているので、日常生活の不便や不自由が一つや二つではない。三つや四つで済んでいる御仁はまだ恵まれている方で、私自身改めて数え上げるとその数の多さに驚愕する。よくもまあ生きているものだと感嘆せざるを得ない。不便や不自由は慣れることでかなりの部分緩和されるが、どうにも慣れるに到らない厄介なものもある。

 その一つが下々の話で恐縮だが、おしっこに関する様々な症状である。通常は別段気にとめなくても自然に尿意を催してトイレで排泄される。ところが一定の年齢に到達すると、大抵の人が「出過ぎるか」「出ないか」のどちらかに見舞われる。特に男性の場合は「前立腺肥大症」という大層立派な病気と付き合う羽目になる。

 医学的詳細は省くが要はおしっこが出なくなったり、出過ぎる病気だ。軽症の内は殆どそのまま放置されるが、次第におしっこが出なくなって血尿になる。便器が鮮血で真っ赤になって驚くが、その段階に到るとおしっこを出すのに悶絶する激しい痛みが伴う。多少でも出ている間はまだいいが、更に症状が進むと完全に出なくなる。医師の助けを借りねば抜け出すのは不可能になる。

 以上が「前立腺肥大症」の典型例だが病気なので当然個人差が大きく、比較的軽症で済む場合と、生死の谷間を彷徨う重症の場合とがある。私の場合は後者の重症であったので、末期症状の折には一滴の排尿も困難になって塗炭の苦しみを味わった。立つことが困難になって、床を這ってトイレへ駆け込む状態だった。思い出すだけで脂汗が滲むほど強烈だった。

 結果的に2度の内視鏡手術を受け、1度目の術後に削り取った前立腺の破片が尿道を塞ぐアクシデントに見舞われて、数回に渡り塗炭の苦しみを堪能した。それだけにたかがおしっことは言え人一倍思い入れが強い。その後も不思議に"ご縁"が深くて、未だに様々な症状と悪戦苦闘しながら付き合っている。大学病院の泌尿器科を悩ませた厄介な症状は、現在ひとまず「尿カテーテル」を挿入することで落ち着いている。

 重度の癌手術を連続して受ける無謀な選択の後遺症で、その後は深刻な「頻尿」に悩まされた。ほぼ1時間置きに繰り返す尿意で夜間は眠れず、睡眠不足が他の症状を誘発する如き状況が連続した。日を追って減り続ける体重は身長180㎝で52㎏まで落ちた。これ以上は医学的に危険領域だと医師に警告されている。「前立腺肥大症」の再発が確認されているが、肺癌再発同様に手術に耐える体力がない。

 薬効に期待する段階は敢えて見送って、 「尿カテーテル」で常時外部蓄尿バックへ流し込む非常手段になった。トイレへ通う必要がなくなって、取り敢えず深刻な「頻尿」から解放された。一時的に太い管を外すキャップも用意し、更には外出用の携帯尿バックも用意しようと思っている。催尿感が全くないので、排尿されているか否かが判らない心理的不安はあるが、他の有効手段がないので「慣れる」のが目下の課題だ。

 体の上部は鼻に酸素吸入の管が取り付けられ、下部には排尿カテーテルが挿入されて、細い透明パイプと太い透明パイプに繋がれたロボットの如くになった。そのいずれも2度の癌手術で体験しており、慣れから来る不思議な安心感があるが、どう口実をつけても快適な暮らしとは言い難い。無理に延命を図る心づもりは更々ないが、それでも未だ死には到らないらしい。

 どうやら命を繋ぐのには"上"も"下々"も関係ないらしい。トイレで至福の時を得られる御仁は、改めてそのことに感謝すべきだろう。人間の幸せは遠い理想郷にあるとは限らないのである。自分にとって必要欠かざるべき命の営みを、努々お忘れなきよう生きたいものと願っている。老婆心ながら……。

蓼食う虫の話

 古来「蓼食う虫も好き好き」と言われる。人間の趣味・嗜好は際限がなく、俗に言う「ゲテモノ好き」の類いが広く世に蔓延している。自分一人で悦に入っている間はいいとして、厄介なことに好きが高じると見境なく他人に自慢したり、勧めたがるので"はた迷惑"のそしりを受ける羽目になる。

 毎度お馴染みの古典落語の世界だが、最近はどういうわけかそんな落語にお目やお耳に懸かる機会が滅法減った。テレビをつければ民放ばかりか公共放送NHKまで、矢鱈にお笑い芸人と称する人種が次々出てくる。だけど不思議なことにそれらのお笑い芸人の本業と思しき古典芸能の寄席番組は、視聴料を強制徴収しているNHKにすらない。

 お笑い芸人が本業の"技"を披露せず、訳が分からない知識人や教養人に成りすましている図が昨今の「現代風情」らしい。悪ふざけのバラエティー番組ならいざ知らず、コロナ関連の医療情報番組や世界情勢の分析番組まで、馴染みがない若いお笑い芸人が登場して臆面もなく最もらしい理屈を並べるのである。

 そんな風情が日常化して久しいが、そんな光景に違和感を感じていては今の時代は生きられないらしい。そんな光景がむしろ当たり前で、変だと感じる人間は異端者であるらしい。幸か不幸か長生きしてしまった高齢者は戸惑うことばかりだが、そんな高齢者は早々に退場すべきとばかりに終末産業が派手な宣伝攻勢を競っている。

 テレビの世界に留まらず、社会のあらゆる分野に変化が起きている。変化を変化と感じなくなることが現代人の必須条件らしく、誰も気に止めずに日常生活が流れている。「時代だから」という簡単な説明で事足りる風潮が一般化して、世の規範や基軸を考える人を見かけなくなった。"新しい"とか、"古い"とかで、簡単に見過ごされている。

 政府の施策に注目する国民が居なくなって、内閣総理大臣が旗を振っても国民は動じない。少しオーバーに言えば、政府の存在意義をどれほどの国民が感じているだろうか。更には民主主義を信じている国民も同様に、到って希薄な少数派だろう。法制度もテレビのお笑い芸人と同程度で、一笑に付す以外の存在価値を見出せない。

 そんな時代を生きる私たちは「蓼食う虫」を笑えない。口にしただけで吐き出すような醜悪な味でも、広いこの世界にはそれを好む人種が居る。国家体制がどうであれ、統治制度がどうであれ、そこにどれだけ奇妙な支配者が居座ろうが、「蓼食う虫」の自由である。自分を状況に合わせればそれなりに快適な生活が得られる。

 現代生活は予め「価値」がそこに存在するのではなく、各自が各々の「価値」を創造する時代のようだ。自由という名の"身勝手"が社会に容認されて、誰憚ることなく「正義」に化ける。多くの国民が挙ってその「正義」の仮面を装着すれば、昨日までの正義は抵抗することなく退散する。その繰り返しと連鎖の中で私たちは日々を生きている。

 世の中も私たち自身も定かな基軸を失った。漂うままに「蓼」さえも口にしている。「蓼」が妙味か醜悪かは実際に口へ入れてみないと判らない。テレビへ登場するお笑い芸人が、何ら見るべき芸や聴くべき芸がないとしても、"テレビ権力"が絶大に支持すればそれが現代の「面白さ」になる。かくて"シラけたお笑い"が全国津々浦々に蔓延する。

 コロナ渦が留まることを知らない。誰もが当事者であって、誰もが当事者でないような、誠に奇妙な感染症が世界を席巻している。事あるごとに「国民の生命と暮らしを守る」と強調する我が国政府は、その言葉と裏腹な施策を繰り出して感染を拡大させた。誰の目にも明らかなのに、未だ誰一人その責任を口にする政府関係者は居ない。

 国全体が「蓼食う虫」になって、銘々勝手に自己流の正義で武装している。どこを見渡してみても「善人」ばかりで「悪人」が居ない。須く世の出来事は「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」ようで、テレビのお笑い芸人同様にその場を笑って誤魔化せば万事「お後がよろしいようで」ある。「蓼食う虫」が異常繁殖した後は一体どんな時代になるのだろうか。

「疑似民主主義国家」

 新型コロナウイルスの感染拡大が止められない。感染拡大が明らかになる中で、その感染拡大を税金を使って助長した我が国政府が、今度は一転して「緊急事態宣言」やら「非常事態宣言」を持ち出した。能面の如き「仮面づら」で、事の次第を理解しているとは到底思えない無表情な"国民へのお願い"だそうである。

 案の定菅総理の言葉を額面通り受け取る国民は皆無に等しい。何を訴えても「あんたらがやれば」程度にしか国民の気持ちには届かない。"外出自粛"を口にしながら、その舌の根も乾かぬ間に銀座で自ら宴会を開いた「無神経総理大臣」である。この人のどこを探してみても、凡そ「知性」と思しきものが見当たらない御仁である。

 末端の社会現象だけを見ても我が国政治の悲劇は語れない。何ゆえ今日の事態を招いているのかを考えるならば、真っ先に考察すべきは国権の最高機関国会であろう。言うまでもなく、隣国中国や北朝鮮の如き共産主義社会主義を標榜している国家体制ではない。敗戦で占領国から"払い下げられた民主主義"とは言え、安普請でも民主主義は民主主義である。

 しかし、終戦から現在に到る政局を見渡せば、本物の民主主義が国民の側から自発的に派生したとは凡そ考え難い。常に"他力本願"や"どさくさ紛れ"に「成る可くして成った」観を免れない。その"輝かしい伝統"が現在に受け継がれて、政権担当能力とは無縁の野党が何故か不思議に国会の議席を得ている。単刀直入に言わして貰うならば"何の役にも立たない芥"の類いである。

 1度や2度なら偶然の産物とも言えるが、戦後70年の長きに渡って継続して国会に住み着いているから誠に不可思議千万である。その"役立たず野党"が唯一貢献しているのが与党自民党の「一党独裁」である。現在は川底に住む蛭の如くに与党に吸い付く公明党という怪しげな宗教政党を取り込んで名目上は連立政権だが、「一党独裁」であることに変わりはない。

 我が国政局は良くも悪くも、この役立たずで浮き草のような野党に助けられて、ほぼ万年与党体制が揺るがない。前職や元職の大臣が次々泥縄的に摘発されても、政権や与党内は"我関せず"とばかり"どこ吹く風"の趣だ。誰も責任を問われることなく、平然と事態が通り過ぎていく。誠に「一党独裁」の旨味横溢だ。"ゴマの蝿マスコミ"が多少騒ごうと追い払うのは簡単で、盤石な支配体制は微塵も揺るがない。

 さてこの事実上の「一党独裁」を助長している野党陣営だが、川面を流れるゴミや芥の類いは集めずとも川下に下る。適当な場所へ不思議に集積するのである。それにも似て時に増殖し、時に減量しても、姿を消すことは決してない。我が国野党は何故か不思議に知性派とか教養人と呼ばれる"訳が分からぬ文化人"の支持を受ける。それゆえに政治の場から消えることがないのである。

 未だに色褪せて久しい"マルクスレーニン主義"を信奉して、「盲目の夢想集団」と化した人種が意外にも大勢居る。自身が何をしているのか良くお判りでないそれらの集団に支えられて、労働者派遣制度の片棒を担いで政府を応援する「訳が判らぬ労働団体」共々、「自民党一党独裁」に大いに貢献している。現職の菅総理がカンペを読むだけの無能であっても、その資質や能力は一切問われないのである。

 例え中身がどうであれ表向きの体裁を整えておけば、行政が機能して形だけでも民主主義は保持される。内閣総理大臣や各閣僚の資質や能力は無関係だ。「自民党一党独裁」体制こそが我が国の民主主義で、総理や各大臣は月替わり・季節替わりで誰かがやれば良い。手っ取り早い話が与党内でくじ引き・抽選で決めれば良いだけのことだ。「我こそは」と思っている恥知らずが、与党全員である。

 現下のコロナ騒動でも毎度お馴染みの野党党首がテレビ画面に登場する。無能な政府と総理大臣は国家の悲劇だが、それ以上に救いのない悲劇がこの人たちだ。自分たちが当事者としての生産性ある提案が成されたことは一度もなく、10年1日相も変わらず異口同音に政府と与党批判ばかりだ。悪いが頭をかち割って脳みそを見てみたいと毎度思う。

 長い期間を経れば民主主義も千変万化する。生きている人間が運用する限り不変であろう筈はないが、その意味で言えば我が国の民主主義は先進国にあるまじき途上国並みのレベルだ。ほぼ硬直化して動きがとれなくなっている辺りは、どう贔屓目に捉えても「大国」という言葉は似つかわしくない。唯一適用できるのは「借金大国」くらいだ。

 誰も知らず、誰も期待せず、物陰から忽然と姿を現した観がある菅総理だが、その手法や経緯は別として現職総理になった。取って代わるべき実力者が党内外に見当たらないので当分は模様眺めで継続するだろう。その間に新型コロナウイルスの感染拡大は増加の一途を辿り、最早打つ手がなくなるだろう。そうならなければ「一党独裁」の主役交代は起こり得ないだろう。

 民主主義などどうでも良いのである。新型コロナウイルスの感染拡大だって、我が身や家族に影響がなければ規制や自粛もどうでも良い。居ても居なくても変わらぬ総理や政府がどう騒ごうが一向に関心がない。やりたければ自分たちがやれば良い。大方の国民は本音でそう思っている。この国の「疑似民主主義」同様、自分に直接影響がなければ「全て良し」なのである。

茶番政治いつまで

 菅政権の不人気が沸騰寸前だ。国民の誰にも知られず、誰にも期待されずに、安倍前総理の突然の辞任劇のどさくさに紛れて登場した菅義偉現総理だが、登場から日が浅いにも関わらずここまで不人気な政権も珍しい。何やら誰も期待していなかった真相が、いわずもがなに伝わる。ご本人は延々と続けたいのだろうが、最早幕を引く以外の方策が見当たらない。

 安倍前総理を見習ってどさくさ紛れに突然登場して、どさくさ紛れに突然身を引くのが何よりご本人のためだろう。これ以上続けられたら主権者の国民が迷惑することを是非自覚すべきだ。明確な方針や主張もなく最高権力者の座に座り続けるのは、"座興"を逸脱して"害悪"になることをご存じないらしい。私たち国民の最大の不幸は与党自民党内にも、野党を含めた国会全体にも、菅総理の首に鈴を付けられる人物が居ないことだ。

 イデオロギー不在の時代は「末期症状の強欲資本主義」が我が物顔に"のざばり"続けるが、銭カネにしか目が向かず関心がない世界の国民は明瞭な「社会規範」を失って、何を指針にして基準を定めるべきかさえ覚束ない。どう巡り廻っても手にすることが出来ない「富の幻想」に惑わされて、自らの生活指針と異なる真逆の候補者に選挙で一票を投じる。

 民主主義が幻想に遠のいているのに気づかず、未だ理想主義の原理・原則を信じて選挙に足を運ぶ人たちが世界の主流だ。自分たちの利害を代弁し、その利害に直結すると信じる候補者の言動は、善悪を超越して「正義」となる。超大国アメリカのトランプ政権がそれを見事なまでに世界に見せつけた。アメリカほど派手に目立つことはないが、我が国にも同根の芽が根付いている。

 隣国の中国共産党とは体制が異なるものの、我が国の自民党は事実上の「一党独裁政権」だ。政権交代が可能なアメリカはトランプ政権がどんなに"悪臭"を放っても、曲がりなりに民主主義が成立している。それに引き替え我が国は民主主義体制にはあるが、殆ど存在感が希薄な雑多な野党が存在するだけで、例え間違いても政権交代が実現する可能性がない。言うなれば"疑似民主主義"とでも呼ぶべき与党安泰体制だ。

 中国や北朝鮮のように強権を発動しなくても、国民が選挙で選んだ結果の政権なので誰憚ることなく"好き勝手"を「正義」に変えることが容易だ。その安直民主主義が誕生させた現菅政権は1度も選挙の洗礼を受けていない。言い方を変えれば"非公認"の暫定政権でもある。安倍前総理の残り任期の短命に終わる可能性が否定できないが、さりとて現在の与党自民党に代替候補が居るとは到底思えない。

 かくして官僚の作成した台本を読むだけの菅総理でも、ライバル不在に助けられて安倍前総理同様に能々と総理の座に居座り続けることが不可能ではない。適任という言葉がどう無理をしても相応しいとは思えないが、我が国の政治システムは誠に政治ブローカー向きに出来ている。不都合な部分は立法府の権限を悪用して削り落としてあるので、"好き勝手"な「正義」が司法の場にまで生きている。

 何をどう処理すべきかお判りにならない迷走政権だが、居並ぶ閣僚全員が同類のようでコロナ騒動の専門家の助言も理解が及ばないらしい。やることと言うことが"ちぐはぐ"で、言葉通りの「右往左往」の域を出ないが、この菅総理と政権が「緊急事態宣言」やら「非常事態宣言」を発しても受ける国民の側は「お笑い茶番」位にしか響かない。額面通りに信頼して実行しようとの気配が希薄だ。

 近年目立ってお笑い芸人やタレントが登場するようになった公共放送NHKの番組同様、必要性を認め難いのに勝手に家庭に入り込んでくる"お邪魔虫"政権は、いい加減引っ込まないと視聴料や税金を払う国民が居なくなると警告したい。"有難迷惑"は所詮"有難迷惑"で、短命・長命の区別なく無用の長物に違いはない。少しは国民が惰眠から目覚めて賢くならないと、やがて民主主義が強権を伴う共産主義に取って代わる日が訪れるだろう。

 戦前の全体主義は何らの予告もなく、国民が知らぬ間に国民全体に浸透して強固な支配体制を築いた。反意を示す者は容赦なく投獄された歴史をお忘れではないだろう。恐怖は気づいた時には大抵手遅れになる。茶番政治の向こう側に存在するのは何かを、確かめるのに遅すぎることはない。怠慢のツケは遅からぬ間に現実になろう。白内障で目が翳む前に、何が必要で、何が不要であるのかを見届けよう。

老人日記(13)

 東京にも雪が降るという予報が出て毎度お馴染みの大騒動にお目に掛かるのかと思ったら、"大山鳴動ネズミ一匹"にも到らなかった。良かったのか、悪かったのかのは判らないが、人の世同様にお天気も大いに気まぐれらしい。凡そ宛てになるようでならぬのが現代社会の新しい常識らしいが、迂闊に物事を信じようとする習性がある高齢者は気をつけねばならないようだ。

 コロナ騒動が依然としてというか、相変わらずと言うべきか、支離滅裂に迷走している。自ら責任を負って決定することなく、都道府県知事の要請を受けて「緊急事態宣言・非常事態宣言」をヨタヨタと発表する担当大臣と菅総理の顔が、近頃とみに臆面もない「馬鹿面」に見えてしょうがない。この人達には一片の知性の片鱗たりとも見出すのが困難だ。

 "笛吹けど踊らず"で、政府発表を鵜呑みに信じる国民がどの程度居ようか。"外出自粛"を訴えた舌の根も乾かぬ間に自ら銀座で大宴会を催した菅総理の言葉を、額面通りに受け取れという方が無理な相談だ。この国の政治は頭のてっぺんから爪先まで、見事と言う他ない嘘に充ち満ちているが、緊急事態も非常事態も「真っ赤」に見えるから滑稽だ。

 街行く人の顔には「お前らが勝手にやれば」との表情がありありだ。政治不信という言葉は使い古された趣だが前大臣や元大臣が次々検挙・逮捕される先進国は、同盟国アメリカに歩調を合わせて"おバカさん振り"を競っている。微塵も恥を感じぬ鈍感さもトランプ政権同様だ。アメリカは大統領選があるが、我が先進国はその手段すらない。

 コロナの感染拡大が新局面に突入しても、日米の閣僚は晴れ晴れとした表情だ。事態の深刻さなど爪の垢ほども感じないらしい。この非常時でも関心事はどう私腹を肥やすかのみのようだ。自らは1円の負担も負うことなく、権力を利用して補助金助成金をばらまいて"悪徳権力"を見せつけている。

 政治の醜態を嫌と言うほど見せつけられ、慣れ親しんで不感症になった国民は政治に目を向けない。我がことと認識する国民は少数派で、大半の国民は参加もせず放置しているのが実状だ。コロナには少なからず関心があっても、菅政権を気にかける国民はまず居ない。それを良いことに菅総理の"我が世の春"は当分安泰のようだ。

 嬉しくもない世相を横目に見て棺に片足を入れている高齢者は、自らの「死に時」を図り兼ねている。このままだと"三途の川"途中で引き返さねばならない羽目になりそうで、少し気掛かりだ。生きるのも大変、死ぬのも大変な世に、未だ命脈をつないでいる。

生きている実相

 人間年齢を重ねると色々な条件が増えるものだ。まずもって身体機能の衰退は否応なく現実になる。齢80ともなればその症状が多種・多彩に重なって、言うなれば"百花繚乱"の趣になる。悲観的・悲劇的に捉えれば文字通り"死にたくなるほど深刻"なのだが、そんなことを言っていても始まらないので極めて楽観的にユーモラスに語りたい。

 車に例えればブレーキが効かない状態が最大の特徴だ。それも車の場合は制動能力の是非になるが、人間様の場合はそれに留まらない。各種の機能が錯綜して複合的に駄目になる。私の場合は膀胱が壊れた状態で尿意を止められない。トイレへ行きたいと感じた瞬間から勝手に尿が出る。日中・夜間を問わずだが、夜間の就寝時はより深刻だ。

 常時尿パットや紙おむつの厄介にならざるを得ないが、満杯状態に尿を吸収したパットや紙おむつは重くなってパンツがずり落ちる。冬場は冷えるので夜中に起き出して交換を余儀なくされる。寒い夜半に起き出して一人自分でパットや紙おむつを交換する図は、どう格好つけても自慢できる話ではない。

 それだけならまだしも更に深刻なのは、それに加えて「頻尿」が重なる。ほぼ1時間沖にトイレへ通わねばならない。ベットへ戻って寝付く頃にまた催す繰り返しだ。一晩に7,8回繰り返す間にも、遠慮なく尿は洩れ続ける。ただ単に寝不足を嘆いて居られる人は幸せだとつくづく思う。実際に体験しないと悲劇の度合いは到底理解できないだろう。

 小便を語れば大便にも触れざるを得ないが、幸か不幸かこちらは膵臓癌手術の置き土産的な水性下剤の常用でパーフェクトにコントロール出来ている。ダブルパンチになる悲劇はお陰で回避できた。但し"出る"悲劇は他にも各種ある。重症の鼻炎で4,5分沖に鼻水が溢れ出る。常時ティッシュペーパーの箱を手放せない。

 耳鼻科の専門医の診断は有効策なしとのことで、アレルギー性の症状を抑える点鼻薬を使用しているが効果がない。更に肺癌手術の後に再発した末期患者なので、医師には常時酸素吸入を勧められている。頑なに「自宅療養」を主張して譲らないので、医師が妥協せざるを得ない"問題患者"だが、片肺が機能してない。当然だが少ししゃべると激しく咳き込んで呼吸困難になる。

 最近になって喀痰が加わり、就寝時にも息苦しさで目覚めるようになった。内服薬で症状を抑えているが、機能している片肺に負担が増して"一触即発"の危機的状況になる。言うなれば「生と死の狭間」で生きている実感が嫌が応にも高まるのである。苦しさを訴えようにも話すのが困難で、それに進行した難聴が重なって意思の伝達が容易でない。

 何とか自力歩行が出来ているのでまだ良いが、動けなくなったら齢80の老々夫婦世帯は破綻する。弱い認知症症状が出始めた老妻はまだ踏ん張って家事をこなしているが、食事の支度が出来なくなったら"万事休す"になる。定期的に訪問診療医と看護師が交互に来てくれて、それに掃除や入浴補助のヘルパーも加わって命を長らえている。

 生きていることを安易に語る人は一杯居る。だが生きるということを実感として理解している人がどれほど居られようか。生きるということは決して容易なことではない。外目には何気なく見える自然な日常も、ただ漫然とそこに存在するのではない。生きるという強固な意志を持って、執着することなく懸命の努力を続ける。生きるとはそういうことであるように思う。

 決して楽しくはないし、面白い訳でもない。美的である要素は多分に極小だ。今日終わるか、明日終わるか判らない極限状態を生きるというのは、殊更強調せずともそういうことだ。自死の選択肢が限られる中で、どう死と向き合い最良の折り合いをつけるかは、言葉で言うほど簡単なことではないように思う。生と死と、日々向き合って生きている人間がここに居る。