獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

生きている実相

 人間年齢を重ねると色々な条件が増えるものだ。まずもって身体機能の衰退は否応なく現実になる。齢80ともなればその症状が多種・多彩に重なって、言うなれば"百花繚乱"の趣になる。悲観的・悲劇的に捉えれば文字通り"死にたくなるほど深刻"なのだが、そんなことを言っていても始まらないので極めて楽観的にユーモラスに語りたい。

 車に例えればブレーキが効かない状態が最大の特徴だ。それも車の場合は制動能力の是非になるが、人間様の場合はそれに留まらない。各種の機能が錯綜して複合的に駄目になる。私の場合は膀胱が壊れた状態で尿意を止められない。トイレへ行きたいと感じた瞬間から勝手に尿が出る。日中・夜間を問わずだが、夜間の就寝時はより深刻だ。

 常時尿パットや紙おむつの厄介にならざるを得ないが、満杯状態に尿を吸収したパットや紙おむつは重くなってパンツがずり落ちる。冬場は冷えるので夜中に起き出して交換を余儀なくされる。寒い夜半に起き出して一人自分でパットや紙おむつを交換する図は、どう格好つけても自慢できる話ではない。

 それだけならまだしも更に深刻なのは、それに加えて「頻尿」が重なる。ほぼ1時間沖にトイレへ通わねばならない。ベットへ戻って寝付く頃にまた催す繰り返しだ。一晩に7,8回繰り返す間にも、遠慮なく尿は洩れ続ける。ただ単に寝不足を嘆いて居られる人は幸せだとつくづく思う。実際に体験しないと悲劇の度合いは到底理解できないだろう。

 小便を語れば大便にも触れざるを得ないが、幸か不幸かこちらは膵臓癌手術の置き土産的な水性下剤の常用でパーフェクトにコントロール出来ている。ダブルパンチになる悲劇はお陰で回避できた。但し"出る"悲劇は他にも各種ある。重症の鼻炎で4,5分沖に鼻水が溢れ出る。常時ティッシュペーパーの箱を手放せない。

 耳鼻科の専門医の診断は有効策なしとのことで、アレルギー性の症状を抑える点鼻薬を使用しているが効果がない。更に肺癌手術の後に再発した末期患者なので、医師には常時酸素吸入を勧められている。頑なに「自宅療養」を主張して譲らないので、医師が妥協せざるを得ない"問題患者"だが、片肺が機能してない。当然だが少ししゃべると激しく咳き込んで呼吸困難になる。

 最近になって喀痰が加わり、就寝時にも息苦しさで目覚めるようになった。内服薬で症状を抑えているが、機能している片肺に負担が増して"一触即発"の危機的状況になる。言うなれば「生と死の狭間」で生きている実感が嫌が応にも高まるのである。苦しさを訴えようにも話すのが困難で、それに進行した難聴が重なって意思の伝達が容易でない。

 何とか自力歩行が出来ているのでまだ良いが、動けなくなったら齢80の老々夫婦世帯は破綻する。弱い認知症症状が出始めた老妻はまだ踏ん張って家事をこなしているが、食事の支度が出来なくなったら"万事休す"になる。定期的に訪問診療医と看護師が交互に来てくれて、それに掃除や入浴補助のヘルパーも加わって命を長らえている。

 生きていることを安易に語る人は一杯居る。だが生きるということを実感として理解している人がどれほど居られようか。生きるということは決して容易なことではない。外目には何気なく見える自然な日常も、ただ漫然とそこに存在するのではない。生きるという強固な意志を持って、執着することなく懸命の努力を続ける。生きるとはそういうことであるように思う。

 決して楽しくはないし、面白い訳でもない。美的である要素は多分に極小だ。今日終わるか、明日終わるか判らない極限状態を生きるというのは、殊更強調せずともそういうことだ。自死の選択肢が限られる中で、どう死と向き合い最良の折り合いをつけるかは、言葉で言うほど簡単なことではないように思う。生と死と、日々向き合って生きている人間がここに居る。