獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

籠の鳥の哀歓

 死期が間近い高齢者は外出がままならない。肺癌再発で息切れがひどく、加えて原因不明の高血圧でクラクラやグラグラが頻繁に起こる。立ち眩みというのは立っていたり、歩いていて起こるらしいが、私の場合は立ち居振る舞いに関わりなく座っている時も起こる。いつどこでひっくり返るか分からないので、動けたとしても一人歩きは禁じられている。

 病状がここまで悪化すると普通は重病人として寝たり起きたりの生活を余儀なくされるのだが、負けず嫌いな老人は朝起床して夜にベットへ横たわるまで外見は普通の生活をしている。初対面の他人は誰も死期が近い重病人だと気づかない。難聴が進行して聞き取れないので会話は困難だが、それ以外は見た目の異常が認められない。

 隔週で訪問診療の医師と看護師が来るが、症状と病状の変化を的確に説明して服用している薬の処方の是非にまで言及する変な患者なので、聞き役に徹して早々に退散する。クドクドとした説明や指示は一切ない。薬の変更がないのかどうかを医師が尋ねるので、症状を判断して必要があれば処方の変更をお願いしている。拒まれたことは一度もない。

 外出できない"籠の鳥"の重病人でも、他人のためではなく自分のために、見苦しくならぬよう"身嗜み"は整える。着用する衣服についても形や色に拘り、自分なりのセンスでさりげなく気配りする。それが生きていることだと認識しているので、例えどんなに苦しい時でも細やかな努力を怠ることはしない。齢80には齢80の"身嗜み"と"オシャレ"があると確信しているので、その信念は未だ失って居ない。

 間近に迫っている死に対する忌み嫌いはないので、時には自分の臨終場面を想像して話題にすることも屡々ある。医師や介護関係者との話題は仏教に関することが少なくないが、仏教の現場を離れて久しいので各宗派の経典の大半は忘れた。仏前で読めと言われても今は心身共に困難になった。それでもその教義や精神は心得ているので、抹香臭くない範囲で望まれれば話する。

 「いつどこでどんな事態に到っても不思議ではない」と医師から宣告されているので、そのことは重々承知している。良くも悪くも事実は事実として知っていれば不安材料が減る。訳が分からず闇雲に脅える醜態は避けたいので、全てを白日の下に曝け出して残り少ない余生を慌てず騒がず生きたいと願っている。幸か不幸かその思いが医師との信頼を築いてくれた。

 生きることを楽しむのに老若男女の差別はない。差別は自らの心に壁を作ってしまうことで発生するので、肩の力を抜いて自分からも他人からも自由になれば、窓から見える青空の深さが感じられるだろう。窓を開ければ風が時代の臭いを運んでくれる。折から音楽や絵画に親しむ「芸術の秋」である。コロナの影響で萎縮していた心と体を広げて見よう。

 "籠の鳥"の老人でもその気になれば世界は目の前に拡がっている。残り少ないゆえに貴重な時間を無駄にせぬよう、明るく楽しく過ごしたいものである。全て自分次第で良くも悪くも世界は変わる。重病人の高齢者だって"死の迎え"が来るまではしっかり生きている。"籠の鳥"の籠が大きいか小さいかは、どうも自分次第であるようだ。