獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

寿命あれこれ

 重病人で死期が近い高齢者は自らのブログを書く意欲さえ失っているが、それでもこうしてまだ生きている間は何とか役目を果たそうと思い続けている。何やらエネルギーの枯渇現象が始まっているらしく、今まで特にどうということなしに書き続けてきた駄文の類いが思い浮かばない。大袈裟に言えば寿命が尽きるというのは、若しかしたらこんな状態に陥ることなのかも知れないと思ったりしている。

 人間の生涯に死は一度しかないので、他の事例のように経験者は居ない。誰かに尋ねることが出来ない分だけ不安が増幅するが、歓迎されてもされなくてもその瞬間が間もなくやって来る。幾ら悪足掻きしても遠ざけることは困難で、誰しもが観念して受け入れざるを得ないのである。長く関わり合った仏教の世界に何らかの回答が用意されているかというと、それらしきものはどこを探しても見当たらない。

 仏教や宗教の悪口を言うつもりは更々無いが、信仰というからにはそれなりに信じるに足るものがある筈だと今更のように疑いたくなる。そういう自分自身の「自己責任回避」が物悲しく思えたりするのである。人間の宿業の深さに思いを致さねばならないが、どうやら生きている限りは最後の最後までそこから抜け出ることが難しいようだ。いくら超俗の世界の神仏とて、人間様の身勝手な願いにまで付き合う義理はないらしい。

 さも在らんと納得すれば、自分の身は自分の責任において処さねばならない。至極当然の理屈に合点せねばならないが、いとも簡単な誰にでも出来る所業が実は一番難しい。昔風の双六に例えれば振り出しに戻るのであるが、人生とは案外単純でゴールに到達してもまた振り出しに戻ることの繰り返しではないかと思えてくる。そんな簡単な理屈と答えに辿り着くまで、人間の一生はえらい長い煩悩の時間を必要としているらしい。

 神仏の世界同様に、地獄や極楽も見た人や経験した人は居ない。信じるのも勝手なら、信じないのもまた勝手である。例え"罰当たり"と非難されようとも、自分の心と手触りで確かめられるのが「信義」だとすれば、最後は「自己責任」に回帰するようだ。一応それらしく納得したとしても、明日も同じ考えかどうかは分からない。誰も経験したことがない世界のことゆえ確実と言えるものは何もないのである。