獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

「高齢者だって辛いよ」

 「男は辛いよ」は渥美清が演じた有名なシリーズ映画だが、その主人公"フーテンの寅さん"ならずとも、今や巷に溢れている高齢者も更に辛いのだ。格好わるく嘆くのはよそうと思っていたが、今更意地を張っても誰も認めてくれそうもないから本音を吐露する羽目になった。男ばかりでなく、爺さんも婆さんも仲良く辛いのだ。

 2種の癌手術のため3度の入退院を繰り返すした揚げ句、やむを得ず部分切除に留めた左肺に穴あきが生じる「気胸」の"おまけ"までつく「失血大サービス」で、予想以上の長期入院になった。その後遺症とも言うべき各種の症状が退院後次々に姿を現して、とても退屈するどころではない大盛況と相成った。

 現在は東西南北どちらを向いても新型コロナウイルスの感染拡大が沸騰した如き風情だが、既往症の重症患者が病院から追い出されそうな気配すらある。どうせ老い先長くはないのだから、どこの病院でどの程度の治療を実施しても同じだろうとは思うが、そう物分かり良く納得する患者や家族ばかりではないと思うから、全てのツケを背負わされる医療現場は気の毒を通り越して"哀切"の気配が濃厚だ。

 その医療現場と否応なく接せざるを得ない重症高齢者は、一体誰が救ってくれるのだろうか。菅総理を始め関係する諸大臣が、そんな医療現場や高齢者施設・家庭に1度でも足を運んだニュースがない。毎日無表情な顔でテレビのニュースに登場する面々に、悪いがとても「国民の生命と財産を守る」とは到底思えない。

 事実や実態を知ることなく、口先で体裁の良い言葉を並べるだけなら誰にでも出来る。少なくとも「生きている人間に語りかける言葉」なら、流れる血の熱さと情熱が伝わる筈で、無味乾燥な言葉の羅列による"政治ゲーム"など誰一人国民は望んでいない。むしろ例え僅かなりとも人間としての良心があるならば、即刻退陣して適任者にバトンタッチすべきだと思うが、その声は永遠に届かないだろう。

 この国で政治を職業としている皆さんに申し上げたい。多くの国民は貴方方に多くを期待していない。ただ当たり前のことを当たり前に、普通のことを普通に、誠実に実行して欲しいと願っている。これまでの経緯と実績から、決して貴方方を信頼しては居ない。何故ならばこれまで1度たりとも、国民の期待に誠実に向き合ったことがお有りだろうか。

 失意と絶望に近い国民感情は未曾有の高齢社会の現実化で、「物言わぬ沸騰したマグマ」に変わった。多くの高齢者が凶器を手にして貴方方の背後に居る。蛮行を辞さず死を恐れることなく「偽善」に立ち向かおうとしている。殆どの政治家諸氏は「燃え尽きる前の焚き火の輝き」に気づいていないだろう。

 人は誰しも自ら好んで老いるのではない。生命体を有する万物共通の宿命で終末を迎えるのだ。死を目前にして人間は何を考えるか。単純化すればこの世に存在すべきものと、存在してはならぬものとに区別される。その存在自体を否定しなければならないのは「虚偽」である。「虚言」 に彩られた政治ゲームなど、本来この世に存在すべきでないものの代表格だ。

 いくら誠を尽くして生きようと努力しても、人間社会は無常な結末へといつしか導かれる。せめて死ぬ間際くらいは自分の意志を貫きたいと私は思っている。政治に期待するものなどないが、かと言って生存する限り一概に否定するだけでは能がない。肯定できなくたって抵抗する手段は一つではない。

 巷に彷徨い、やがて野山や海にも行き場のない高齢者が溢れるかも知れない。そうなって不思議ではない政治を選択したのは誰あろう私たち国民だ。然も現在その現実感が増す段階に到っても、国民は自らが選択を誤ったとは考えないだろう。例え真実がどうであろうと、慈善者の如くに装って"善良"に死にたいのである。"善い人"で在りたいのである。

 コロナウイルスの感染拡大が更に長期化しても「明日は我が身と」誰もが思わない。既往症の重症高齢者でさえ、そう自覚しているのは一部だろう。他人事のような"政治ゲーム"が連日展開されている中で、真実の重みを伴っている医療現場の声までもが連動して軽く聞き流されている。

 高齢者が溢れるこの時代を好んで生まれてきたわけではない。なのに"理不尽"とも思える現実に直面しても、尚も追い打ちをかけて重症高齢者を受け入れる病院がなくても、「こんな時代だから」と高齢者は耐えている。それが当たり前になって、誰も不自然だと感じなくなる日が目前だ。国民に窮乏を求める一方で、自分たちは好き勝手に夜の飲食に酔い痴れるのが「常識」の政治だけが、高齢者を食い物して「焼け太り」している。