獨庵放言録

群れず流されず時代を見つめ続ける老人の、骨太で繊細な風変わりブログ!!!

終末期医療とコロナ・ウイルス

 ようやく少しだけ終わりが見え始めたコロナ・ウイルス感染症対策だが、その惨禍を一手に負わされた観がある医療機関の戦いはまだ終わらない。これだけ大きな拡がりを持つ厄害は珍しいが、人間が生きている限り克服せねばならない課題は多い。誰しもが必ず迎える人生の終末についての議論もその一つである。

 若い世代には凡そ無縁と思われる人生の最後だが、自分自身にとっては遠い課題であっても祖父母や両親には身近なテーマだ。いつかはどこかで直面する人の「死」は、冷静に客観視すれば単なる自然現象の一つに過ぎない。人生の始まりがあれば必ず終わりもある。ただそれだけと言えば言えなくはないが、人間の一生はそう単純ではない。

 私たちは普段の生活の中で、自分が死ぬことについて真剣に考えたことがあるだろうか。重症の病気や怪我を負えば「死」との距離は急速に縮まるが、それでも人は常に生きるという前提で事態を受け止める。「死」を想定する人は殆ど居ないだろう。高齢者特有の老人医療でさえ、「死」を前提に議論が始められることはまずない。

 人は古来その「死」を忌み嫌って来た長い歴史がある。生きることを「幸運」とし、死ぬことを「不幸」と呼ぶのはその裏付けでもある。誰しもが必ず受け入れねばならない「死」を、何故もっと明るくハッピーな話題として取り上げないのか不思議である。市場経済が全盛の現代は「終末事業」と呼ばれる類いの商売も少なくないし、それぞれがそれぞれに利益を得て発展している。

 その 「終末事業」とは趣が違うが、「終末医療」と呼ばれる分野が昨今は屡々話題になる。一部のマスコミが先導して話題作りをするが、その都度議論が深まる気配がないまま忘れ去られている。高齢者に限った話では必ずしもないが、病気や怪我が重傷で医学的に救済の方法がない人たちが少なからず存在する。私自身もその一人だが、端的に言えば「死を待つ」ばかりである。

 例えどんな事情があろうがなかろうが、科学は科学でそれ以上でもないし、それ以下でもない。感情が入り込む余地がないのは誰しもが一応理解している。それでもいざその「死」が現実化すると、人はそれぞれに様々な理由を見つけようと懸命になる。「人生の終わり」をひたすら受け入れまいと思うようだ。

 その人それぞれが受け入れようが、受け入れまいが、「死」は確実に訪れる。たったそれだけの簡単なことのために、人はそれぞれにもがき苦しむのである。宗教があってもなくても、最後は現代科学の最先端医療に見送られることになる。私たち個人が「死」から逃れられないのと同様に、医療に従事する方々もまた人の「死」から逃れられないのである。

 私たち日本人の多くがお世話になる宗教分野の仏教には、人の「死」に関する各種の位置づけと分類が成されていて、報酬額も概ね定められている。寺院や僧侶にはそれ相応の利益が約束されている。けれども「死」と最も関わりが深い医療分野には、人の最後を看取った報酬項目がない。

 そればかりか医療が救済できない末期症状の多くの患者を、何らの報酬もないまま善意で見回っている医師が少なからず居る。具体的な治療がないので医療とは言い難い現実が目の前にあり、医師として究極の選択を迫られながら人道支援を続ける方々である。高齢化社会が現実となって久しくなるが、未だ制度が整ったとは言えない実態を、政治や行政が気づいているだろうか。

 介護保険の現場でどれだけ数多くの矛盾が吹き出していることを、一体何人の議員がご存じであろうか。コロナ・ウイルス感染防止が声高に叫ばれる一方で、自らの生命と家族に犠牲を強いながら最前線の現場に立ち続ける医療従事者に是非とも目を向けるべきである。コロナ・ウイルスだけが人の「死」につながるだけではないことを、身近に溢れる高齢者の背後に見い出さねばならない。

 医学の崇高な理想と使命感に甘えて取りすがるだけで、現代社会が直面している喫緊の諸課題を克服できるのか否かが問われている。久々の大きな「餌」に貪りつくハイエナの如くに、国や自治体の支援金に群がる図式は見苦しい。すべての制度矛盾を併せて飲み込んで、それでも人道的理念にこだわり続ける医療現場の冷徹で過酷な現実を訴えたい。

 人間の生涯は生誕から死まで医療と無縁ではない。誰しもがいつかは当事者でお世話にならざるを得ない医療の、取り分け眼が向けられる機会が少ない「終末医療」は、制度整備が欠かせない段階に差し迫っている。注目すべきはコロナ・ウイルスだけではないのである。それは貴方や私の今日の問題であり、明日の問題でもある。